慶應義塾大学アート・センター Keio University Art Center

【FromHome】-11 6月10日:「貝殻について―見えるものと見えないもの」久保仁志(2020/5/27)

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慶應義塾大学アート・センターは、展覧会活動やアーカイヴの公開を行ってきました。キャンパスに隣接しながら門の外にあるという場所も含め、小さいながらも外に向かって開かれている学校の小窓的存在と言えます。
新型コロナウイルス感染拡大の影響下、展覧会やアーカイヴの公開を出来ない状況が続いていますが、スタッフはリモートで仕事を続け、アート・センターは活動しています。その中で、現状下における芸術や研究、自分たちの活動や生活について様々に考えを巡らせています。
そこで、所長・副所長をはじめスタッフからの日付入りのテキストを現在時点の記録として、ここにお届けいたします。

慶應義塾大学アートセンター

 

貝殻について―見えるものと見えないもの

久保仁志(所員/アーキヴィスト)

 現在、2020年5月27日、神奈川県逗子市にてこの文章を書いている。5月25日には約1ヶ月半にわたる緊急事態宣言の全国的な解除が告げられた。しかし、基本的には自宅におり、外出と言えば食料品や日用品の買出し、近所の浜辺で貝を拾っては捨てたりを繰り返しながら小一時間散歩するぐらいである。緊急事態宣言前後の生活はがらりと変わったが、宣言後と解除後の隔たりを大きく実感することはあまりない。浜辺を散歩しているとき、穏やかであったり荒々しかったりする絶え間ない波の運動は、雑事を飲みこみ、上空で旋回する鳶の嘶きとともに、際限ない世界を感じさせてくれる。

 分析機器を介して見るか、発症することによって体感することしかできないウィルス。眼に見えないウィルスと私達との関係は、主にニュースを通して、またはマスクをつけたり、アルコール消毒をして入店したりという互いの振舞いの変化を通してしか現れることがない。しかし、普段は眼に見えないものの存在をあまり意識化することのない人々の間にも、否応なしに何らかの関係を結ばざるを得ないような確かな存在として、それは存在感を増して現れてきたと言えるだろう。けれどもそれは、病院勤務者や感染者、その関係者のように直接的な関係を結ぶ以外の人々にとっては非具体的な存在かつ確かな存在として意識化される捉えがたい存在である。当然だが普段の私たちは不可視の存在に取り囲まれて生活している。肉眼で見えるものは世界のごく一部に限られ、外部装置を介さない限り見えないものがたくさんある。そして、PCR検査に代表されるように外部装置の精度も絶対ではない。ハッブル望遠鏡でも届かない場所があるようにそれも限界を常に有している。さらに、AIが代わりに見て考えてくれるのでない限り、外部装置も肉眼で目視しなくては要をなさない。歴史もそれと似ているところがあるのかもしれない。歴史という言葉が大袈裟であるなら単に消え去った出来事と呼んでもいいだろう。

 私は浜辺を散策する際、生きている貝を見つける遊びをしている。波に洗われ生々しく見える貝も大抵の場合、貝殻(抜け殻)であり―1ヶ月の間に1度だけ生きているかもしれない貝をみつけた―、二枚貝ならば片割れだけ、巻貝ならばどこかしら穴があいたものを拾って捨てることが多い。私の手の平の貝殻は、その誕生から死までどのくらいの月日を経たのだろうか。貝の生の時間で起きた出来事全ては確実に存在したと言えるだろうが、貝殻となった今、それは捉えがたい非具体的な存在である。しかし当然、どのような大きさの貝殻であっても、かつては身を有した貝だったはずだ。今は消え去った貝の身が生きていた時間を貝殻は表現している。貝殻を拾うとそのような一連の思考に巻き込まれ始める。かつて瀧口修造は言葉を貝殻に喩えて語っていた。

「いかなる藝術の運動も、時代とともに展開し、やがて見送られてしまふと、その中に生きてゐた偉大な作家たちの個性や秘密や體系は、忘却の海の藻屑になつてしまひがちである。/運動の流れとか時代の主張そのものは要約され得るであらう。しかしながらその主張の要素をなすものは、すべて少數の選ばれた藝術家の生理を通して、生產されたものであるのは言ふまでもない。彼等は、その時代の靑い海の中で、それぞれの貝殻の中に、生き且つ動いてゐた肢體であつた。われわれは砂上に落ちてゐた貝殻を見ると、この肉體のことは殆んど思ひ出さないのが常である。それが美しければ美しいほど、その軟かい生命のことを忘れてしまふのだ。或ひはその想ひは、大きな波音に消されてしまふのであらうか。」(瀧口修造『近代藝術』三笠書房、1938年、208頁。「/」は改行を示す。以下同様。)

身を有していた貝の「生理」によって「貝殻」は組織化されたものだ。貝の身と「貝殻」は貝の生にとっては不可分のものだった。しかし、抜け殻となった「貝殻」から貝の身を想起するのは容易ではない。残された「貝殻」が表現するものを通じ、アナロジーや想像や分析によってしか貝の身へとアプローチすることは叶わない。瀧口は残された「貝殻」を手に取り、貝の身に想いを馳せる痛みと喜びを同時に噛みしめていたはずだ。けれども、瀧口は遠く手の届きがたい貝の身に対して単に甘い痛みを持って想いを馳せるに留まりはしない。瀧口の「貝殻」への態度からは、オプティミズムもペシミズムも感じられない。信仰やニヒリズムとも異なるその態度は、ひとえに出来事としての実在を捉えようとする強い意志に貫かれている。それが決定的な変更を被ったどのような形であったにせよ、断片的であるにせよ、「貝殻」は貝の「生理」―貝に起きた様々な出来事、肉体と精神によって培われた思考の諸様態―を折り畳んでいる。瀧口のアクチュアリティとして考えられるのは、この「貝殻」を絶え間ない編集の過程にさらしてみることにより、不可分であるはずの貝の身と「貝殻」の結びつきを、貝に起こっただろう出来事を、貝の思考の諸様態を、ある運動として復活させようと試みるところにある。それは、自身の詩を中心とした制作においても、他者の文章を読むときにおいても変わらない。瀧口は、自らの手によって制作していた通称「手作り本」において、包装紙(「貝殻」)を頁の一部として組み込んだり、他者の印刷物(「貝殻」)の複製を自身で装丁し直したり、自身の手書きの文章(「貝殻」)を似たレイアウトで幾度か書き写し変奏を試みたりしていた。瀧口が賭けていたのは、「貝」が死にその身を失ってもなお、「貝殻」として「第二、第三の生」を生き続け得るということだ。別の文章では詩の発生がどこで起きているのかという問いを「貝殻」の問題とともに立てている。

「詩は何に[「何に」に圏点]書かれるものか[...]詩は形を持たぬ/という頑な認識があり、私を捉えて離さない。/書いているときの/ペンや鉛筆が紙を擦っているが、/これはこれで別の何かの仕事なのか?[...]「秘メラレタ音ノアル」/ひとつのオブジェ。/それはひとつの行為を内蔵してしまったもの。[...]貝殻は決定された組成。//貝は死にながら、/まだ㐧二、㐧三の生を/生きつづける。痛ましくも、巧みな/他者の生。」(瀧口修造「アララットの船あるいは空の蜜へ小さな透視の日々」『点』No4、1972年。)

瀧口は詩が発生し、展開していくための条件を物と身体と精神が連続したサンサシオンに貫かれている時空間(「生理」)だと捉えていたように思う。それが漠然とした想起のときなのか、紙に記されて行くときなのか、記されたものを反芻し書き換えていくときなのか、書き終えたときなのか、レイアウトされるときなのか、製本されたときなのか、読者が読み進めるときなのか、読者が誰かに伝えたときなのか...。断続的に繋がっていくその鎖、そのプロセスのどこにでも「詩」は発生していると瀧口は考えていたのではないか。つまり貝の生としての「詩」は記されるとともにその身から引き剥がされることで死ぬのだが、「貝殻」として残存し、折り畳まれた第一の生の展開として「第二、第三の生」を生きるのだ。瀧口にとって「詩は行為である」(瀧口修造「詩と実在」『瀧口修造の詩的実験1927~1937』思潮社、1967年)のだから「貝殻」を通じた他者―瀧口自身をも含む―の行為によって「詩」は何度でも折り畳まれては展開されることになる。むしろ他者によるその行為の連なりによって「詩」は何度も形を変えて生き直すのだと言えるだろう。それゆえ、瀧口は終止符を打つことを拒み、たとえ打ったとしても再開し続けたのだ。その行為は常に仮説的/仮設的であり、終わりなき運動として反復し続けなければならない。

 2020年5月21日から5月30日まで「「影どもの住む部屋」II+:瀧口修造の〈本〉―ひとつの行為を内蔵してしまったもの」(多摩美術大学アートアーカイヴセンター/慶應義塾大学アート・センター合同企画)という展示企画を、多摩美術大学アートテークで行おうと、同アートアーカイヴセンターの田川莉那氏、瀧口研究者の山腰亮介氏と3人で進めていた。しかしこの状況下で、他の多くの展覧会と同様に延期を余儀なくされ、代わりに冊子を制作することとなった。多摩美術大学は、瀧口修造資料における書籍類を主に所管しており、瀧口の旧蔵書をモチーフに展示が行われる予定だった。テーマは、本を「ひとつの行為を内蔵してしまったもの」(瀧口修造「アララットの船あるいは空の蜜へ小さな透視の日々」)として考えるということだった。瀧口の書斎にはおびたたしい本があったが、一冊の本もまた、「貝殻」だということができるだろう。さしずめ、瀧口の書斎は「貝殻」が打ち寄せられた浜辺だろうか。もはや瀧口が生を営んでいた西落合の家もなく、瀧口自身は消え去った。その歴史を考えようとするのなら、かつての浜辺に残存した「貝殻」(資料群)を通してアプローチするしかない。終わりなき仮説的/仮設的運動として。

 浜辺では私以外にも多くの人が膝を曲げ、砂の触覚を確かめるように手探りしながら貝殻を拾い上げている。この世界には多くの貝殻が転がっており、実現されぬままに打ち捨てられた貝殻もたくさん混ざっている。来年、おそらく展示を行うことになるが、延期になった未生の企画はいくつかの貝殻として残存し、その貝殻は冊子の中で編集にさらされることになるだろう。今日も、浜辺にはいくつもの貝殻が打ち上げられ、いくつもの貝殻が波に連れ去られて消えているのだろう。ここかしこで貝は貝殻を作り続けているだろう。

2020年5月27日


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