慶應義塾大学アート・センター Keio University Art Center

【FromHome】-10 6月8日:「「見る」ことと「感じる」こと」新倉慎右(2020/5/9)

Fromhome

慶應義塾大学アート・センターは、展覧会活動やアーカイヴの公開を行ってきました。キャンパスに隣接しながら門の外にあるという場所も含め、小さいながらも外に向かって開かれている学校の小窓的存在と言えます。
新型コロナウイルス感染拡大の影響下、展覧会やアーカイヴの公開を出来ない状況が続いていますが、スタッフはリモートで仕事を続け、アート・センターは活動しています。その中で、現状下における芸術や研究、自分たちの活動や生活について様々に考えを巡らせています。
そこで、所長・副所長をはじめスタッフからの日付入りのテキストを現在時点の記録として、ここにお届けいたします。

慶應義塾大学アートセンター

 

「見る」ことと「感じる」こと

新倉慎右(所員/学芸員)

 現在の状況により我々は生活自体の変革を余儀なくされた。外出を控えることが多くなり、必然的に他者とのコミュニケーションはオフィシャルであれプライベートであれ、インターネットを介して行われることがスタンダードとなっている。自宅で仕事をしていると、今や公共圏が私圏を侵食してきたか、と思わないでもない。しかしビデオ通話でもしない限り他者の顔や声を知覚することもなく、無機質な文字の羅列を相手にしていると、そうした感覚が鈍化してしまうのは幸か不幸か。かつてギデンズはグローバル化が進展する、彼の言うところのハイ・モダニティの特徴として、「脱埋め込みメカニズム」を挙げた。これは社会関係が場所という文脈から切り離され、時間的/空間的距離を超えて再編されることを指すが、コロナウイルスの影響でテレワークに従事するならば主体の在処はほぼ自宅に固定されるのであって、一種受動的で発展性のない形での「再埋め込み」が起きているのではないか。いずれにしろこのことにより、いささか逆説的だが、近代以降の社会関係において意味を剥奪されていた「場所の所在」について考えさせられる。現代において自明な意味を持つ場所がどのくらいあるだろうか。どのくらい残っているか、という表現の方が正確かもしれないが。

 この問題は芸術にとっても無縁なものではない。芸術作品と鑑賞者という関係性もまた社会的関係であるとするならば、そのコミュニケーションは、基本的にこの国では展覧会の会場で行われるのが一般的である。この関係性は鑑賞者が会場に足を運び、作品を直接目にするという儀式によって成立するので、モダニティが進展する以前には普通であった、場所と深く結びついた関係性である。
 ところがこのコロナ禍により、美術館は一斉に門を閉ざした。外に出られなければ、美術館の展示作品以外の、例えばストリート・アートすら鑑賞され消費されることはない。そこで美術館をはじめとした組織や個人が、発信作業に勤しむことになり、現在様々な試行錯誤が行われている。美術館のウェブサイトを覗けば、何かしらの特別な情報発信を目にすることができるだろう。それは作品の紹介であるかもしれないし、展覧会を丸ごとヴァーチャル体験できるコンテンツを用意しているところもある。
 こうした発信作業を特段強化しなければならないのは、展覧会というシステムが、作品と鑑賞者が場を共有するというまさに「前近代的な」コミュニケーション手法に拠って立っているからである。したがって、一度鑑賞者を現地に呼び込むことができなくなると、このシステムを十全に機能させることが難しくなり、代わって「現代的な」手法であるデジタル展覧会のような手法が用いられるのである。なるほど、確かにインターネットを介して作品や展覧会を体験できるのであれば、展覧会場を訪れる労力もチケットを購入する出費も、時間のマネジメントも不要となり、快適に芸術を享受できるだろう。

 それ自体はもちろん悪いことではないし、利点は枚挙にいとまがない。しかしそれゆえに、そこに潜む陥穽に注意しなければならないと思う。つまりあまりにも充実したデジタル体験が、(実体のある作品や展覧会の場合)画像や動画で見たから実物を目にする必要はないといったようなミスリードを招きかねないのではないか、ということだ。人間は知ったつもりになることが得意な動物なのだから、よくよく気をつけねばならない。画像を目にしようが実物を目にしようが同じではないか、という意見もあろう。自由自在に動かして見られるシステムがあれば、触れられもしない展示品を実見することにどれほどの価値があろうか、と感じられもするだろう。しかし、それによって得られるのは、誤解を恐れず言うならば、知識ではあっても知覚ではない。人間の視覚はなかなかどうして、網膜に映る像以外のことも感じさせてくれる。神ならぬ人間には身体があり、それゆえにこそ身体的感覚として触感や重量感なども、その場に身を置くことで、目を通して知覚することができるのだ。芸術は感性を悦ばせるものである以上、それを味わうためには、実物に身をさらすことが求められよう。
 無論、実際に現場を訪れることができる人ばかりではないし、昨今の事情を鑑みれば、デジタル発信やそのコンテンツの充実が重要なのは論を俟たない。だが現在の余勢を駆ってポスト・コロナ時代にデジタル偏重に陥ることなく、展覧会をはじめとする作品に直接触れる場の充実も図るということを、美術業界の末端に位置する者として自戒せねばならないだろう。知識や情報の伝達、果ては実見ではわからない作品の分析といったデジタルの利点も考えれば、デジタルとアナログ(芸術を直接鑑賞すること)の融合が最適解と言えそうだ。結局のところ、改めて言葉にするのも気恥ずかしいくらい当たり前のことだが、「やってみないとわからないこともある」のだから。

2020年5月9日


What's on