パピエプリエ 02:瀧口修造と荒川修作/マドリン・ギンズ―書簡または余白と空白
しかし私は気ままに、頑固なほどに、文字でもなく絵でもない、ひとつの空所からの使いを愛しています。/その「空所」とはなにか。いまはもっぱらこの紙の上の線の軌跡が語るのにまかせましょう。
―瀧口修造『余白に書く』みすず書房、1966年、42頁。
空虚[Void]、無[Nothingness]、空っぽ[Emptiness]、白紙[Tabula Rasa]、真空[Vacuum]。これらのどれひとつとして、私たちが「空白[Blank]」の観念によって示そうとすることをカバーできない。/まず第一に、開かれた状態を保つという意味で、「空白」は何よりも中立的な位置づけにある。「空白」は分化されないが、存在するものである。だから無ではない。「空白」は蓄積することができる。だから空虚ではない。「空白」はおそらく独自の作用法則を有する。したがって「空白」そのものは白紙ではない。「空白」は空っぽを満たすものである。「空白」は真空が何であるにせよ、真空を引き寄せたり、養いはするだろうが、真空と同一のものではない。
―荒川修作/マドリン・ギンズ『SPACE AS INTENTION』ギャラリーたかぎ、1983年、英文のp. 1より訳出。
詩人、展覧会のオーガナイザー、美術批評家、造形作家と多様な活動を繰り広げた瀧口修造(1903–1979年)は荒川修作(1936–2010年)/マドリン・ギンズ(1941–2014年)と多くの書簡をやりとりしていた。両者の文面には多くの取り消し、書き直し、補記などが見られる。手書きの手紙という性質上、それらは単なる訂正の場合もあるだろうが、積極的な「余白[margin]」への介入、または「空白[blank]」の構築だと見ることもできるだろう。実際両者ともに自らの作品に取り消し、書き直し、補記を取り入れている。瀧口は「余白」という概念を、荒川/ギンズは「空白」という概念を作り上げた。瀧口は主に『余白に書く』を通して、荒川/ギンズは諸作品と『死なないために』(1988年)を通して。一見似ているこの二つの概念はどのように異なっているのだろうか。本シンポジウムにおいて、手紙を通して現れてくる瀧口-荒川/ギンズの諸問題、そして「余白」と「空白」について考える。
チラシ:ダウンロード
日時
2024年12月7日(土)13時–16時
場所
〒108-8345 東京都港区三田2-15-45 慶應義塾大学三田キャンパス東館6階G-lab(キャンパスマップ⑬)
最寄駅:JR山手線・京浜東北線田町駅、地下鉄三田線三田駅、大江戸線赤羽橋駅
対象
どなたでもご参加いただけます。事前申込みは不要です。
費用
無料
登壇者/出演者
久保仁志|司会
桑田光平
塚原史
平倉圭
本間桃世、 松田剛佳(荒川修作+マドリン・ギンズ東京事務所)
山本浩貴(いぬのせなか座)
瀧口修造研究会メンバー
タイムテーブル
【1部】
13:00–13:20:久保仁志
13:20–13:40:本間桃世、 松田剛佳(荒川修作+マドリン・ギンズ東京事務所)
13:40–14:00:塚原史
14:00–14:20:桑田光平
【休憩】
14:20–14:40
【2部】
14:40–15:00:平倉圭
15:00–15:20:山本浩貴(いぬのせなか座)
15:20–15:30:八木宏昌(富山県美術館)「富山県美術館瀧口ルーム(展示室6)の紹介」
15:30–16:00:ディスカッション
お問い合わせ
慶應義塾大学アート・センター
〒108-8345 東京都港区三田2-15-45
TEL 03-5427-1621
主催・共催など
主催:慶應義塾大学アート・センター
協力:荒川修作+マドリン・ギンズ東京事務所、Reversible Destiny Foundation、富山県美術館
*パピエプリエ:〈パピエプリエ[papier plié]〉とは、瀧口が「手づくり本」に準ずるものに付けた名称である。直訳すると「折り畳まれた紙」だが、折紙を指す場合もある。『シュルレアリスム簡約辞典』(1938年)の「美しい死骸」の項目に、次のような説明がある。「いく人かの人間に、一句乃至はひとつのデッサンをかかせることでなりたつ、パピエプリエの遊び。」(アンドレ・ブルトン、ポール・エリュアール編『シュルレアリスム簡約辞典』江原順訳、現代思潮社、1976年、6頁[初版1971年]。原文を参照しつつ一部訳語を変更した。)。遊びの最中、前の人が書いた/描いたものは折り畳まれて隠され、次の人は見ることができない。
**シンポジウムの内容は急遽変更になる場合があります。HPをご確認下さい。