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谷口吉郎とイサム・ノグチ 慶應義塾の近代建築とモダン・アート III

ラジオNIKKEI(旧ラジオたんぱ) 慶應義塾の時間

新萬來舎 室内と庭園の空間デザインを体験する

柳井康弘

谷口吉郎とイサム・ノグチのコラボレーション

谷口吉郎とイサム・ノグチは、おそらく一九五〇(昭和二十五)年七月に新萬來舎のデザインについて意見交換を重ね、制作に集中したと思われる。なぜなら翌八月十八日―三十日に三越百貨店で開催された「イサム・ノグチ作品展」(毎日新聞社主催)に、早くも「新萬來舎」の平面図と建築模型、彫刻作品のモデルや談話室のための家具が出品されているからである【3―1・3―2】。二人の協同制作(コラボレーション)について、谷口は以下のように記している。

私が、イサム・ノグチ氏と共に、三田の丘に設計した新「萬來舎」の建物は、「彫刻」と「建築」の協力による試作である。イサム氏がその「庭園」と「クラブ室の内部」を設計し、私がその「建築」を設計した。しかし、二人の仕事は分離したものでなく、互に協力し、スケッチに於て、製図に於て、模型に於て、暑い夏の昼も、夜も、いろいろと熟議し合った。(*1)
3-1 三越百貨店におけるイサム・ノグチ作品展 1950年8月 The Isamu Noguchi Museum HPより

3-1 三越百貨店におけるイサム・ノグチ作品展 1950年8月 The Isamu Noguchi Museum HPより

3-2 イサム・ノグチ作品展に出品された新萬來舎の建築模型

3-2 イサム・ノグチ作品展に出品された新萬來舎の建築模型

展覧会までの五週間、ノグチは集中的に制作活動を行った。ノグチはまず日本における陶芸の中心地である瀬戸に赴き、そこで数多くのテラコッタ作品を制作した。その後東京に戻り、新萬來舎のための家具や彫刻作品のデザインと制作にあたった(*2)。この時ノグチのために制作の場所と材料を提供したのが、当時川崎市津田山にあった「工芸指導所」である。工芸指導所は日本の工業デザイン振興を目的として一九二八(昭和三)年仙台に設立された商工省の研究機関で、後に一九四〇(昭和十五)年東京の巣鴨に移転した。工芸指導所には戦前からブルーノ・タウト(一九三四)やシャルロット・ペリアン(一九四〇)が招聘され、日本固有の材料を使って海外に輸出するための工芸品を生産するための様々な研究や試作品の制作が行われていた。この工芸指導所で当時指導的な役割を果たしていたのが、日本を代表するインテリア・デザイナー剣持勇(一九一二 ―一九七一)であった(*3)。

3-3 〈無〉の石膏原型を制作するイサム・ノグチ

3-3 〈無〉の石膏原型を制作するイサム・ノグチ

ノグチは剣持と工芸指導所の協力を得て、「青い丸首シャツに青パンツ、片手に七つ道具の入った革製の工具袋をぶらさげ、片手にスケッチブックを携えた(*4)」といういでたちで、八月一日から工芸指導所に通い制作に没頭した(図1【3―3】)。この時津田山にほど近い田園調布の自宅をノグチのために宿として提供し最も身近な存在であった猪熊弦一郎(一九〇二―一九九三)は、ノグチの仕事ぶりについて以下のように書き残している。

或朝、彼は「燈籠を作りたいです」と言い出した。丁度それが展覧会が始まる一週間位前の事であった。私はえらい事を言い出したと思った。今度の展覧会に出品されるのですかとたずねると、「そうです。大きな石でやりたいです」と言った。(中略)とても後一週間では不可能でしょうと私が言ったら、その時初めて不可能な相談である事をハッと気づいたらしく、「そうですね」と子供がしょげた様な可愛い、そして気の毒な悲しそうな表情を見せた。(中略)早速スケッチブックを持って来て彼の燈籠を色々想をねり始め、頭と胴と足を重ねた様な丸い立体を幾つも幾つも描き続けた。やがて「燈籠は面白いです」と私の顔の方を向いて実にうれしそうに眼で笑って見せた。彼の頭の中には最早何か出来上ったらしい。「行きましょう」と弟君をうながしながら、靴のひもを結ぶ間ももどかしく大急ぎで手を大きく上に振りながら門を出て行った。(中略)今日は野口氏の帰りは遅いだろうとは思っていたが、夜中の二時過ぎになってタクシーで帰ってきた。身体中は石膏の飛沫で真白になり、汗と脂で顔は青く光り、水からはい上って来た男の様な姿で玄関からころがる様に入って来て、いきなり、「私はもう死にました」と言って、そのままベッドの上にうつむけになったまま、それこそ死んだ様に横たわってしまった。朝から翌日の午前二時まで彼は精魂をつくしきって、「燈籠」を作り上げて帰って来たのだ。(中略)その翌日私が指導所へ出かけた時は表面を修正していたが、私はしばらくものが言えない程その大きさの、新しい美に見とれてしまった。「これが《無》です」と彼はその時言った 。(*5)

少し引用が長くなったが、これは新萬來舎の西側庭園に設置されることになる彫刻作品《無》の石膏原型制作に関する証言である。ここには、芸術家が創造にあたってインスピレーションを得る瞬間や、それを実際の形に表現する際の人並みはずれた集中力など、芸術の創造プロセスに関する興味深い事実が明らかにされている。こうしてわずか五週間という短期間にもかかわらず、ノグチは彫刻二点、家具三点、塔のモデル二点、焼物のハニワ、つぼ、掛け額など小品数十点にのぼる作品を仕上げた(*6)。それらが三越百貨店のイサム・ノグチ作品展に出品されたのである。

第二研究室の竣工

慶應義塾大学三田キャンパスの「第二研究室」は、一九五一(昭和二十六)年一月着工、同年八月に完成した。塾の戦後復興建築としては最初の鉄筋コンクリート造りで、二階建ての建物は教授のための研究室と事務室計三十四室と談話室一室から構成されている(図2、3【3―4・3―5】)。第二研究室竣工後、谷口吉郎は設計のコンセプトについて以下のように説明している。

慶應義塾の三田山上には「第四号館」「第五号館」「学生ホール」の校舎が建ち、続いて「第二研究室」が新築された。戦争中、三田はひどい空襲を受けた。その焼跡に再起を目ざして、乏しい建築資材によってバラックを建て始めた困難な時代から、ようやく鉄筋コンクリートの建物にまで、こぎつけることができた。私はこの一連の建物に、意匠の一貫性を求めている。それは福澤諭吉によって創建された「演説館」(明治八年、一八七五)にこもる意匠のモラルを、各校舎が受けつぐことによって、「福澤精神」のルネッサンスを表現したいと念ずる建築家の構想である。(*7)

このように戦後の三田山上に建築の「造型交響曲」を夢想し、一貫した「意匠」による復興校舎群を実現してきた(*8) 谷口にとって、鉄筋コンクリート造りの「第二研究室」の完成はこの壮大なプロジェクトの一つの到達点を示すものであった。また三田山上西南部隅に建設された第二研究室の建物は、南側約三分の一がキャンパス側へ「くの字」形に折れ曲がっており、「意匠」の源泉である「演説館」を志向するようにデザインされている(図4【3―6】)。その「くの字」形の付け根部分に設けられた入口を入ると右手正面に階段ホールがあり、谷口設計のらせん階段が美しいプロポーションを見せている(図5【3―7】)。そして、その玄関ホール左手の扉が談話室、すなわち「新萬來舎」の入口となっている【3―8】。

3-4 第二研究室平面図 『新建築』1952年2月号より

3-4 第二研究室平面図 『新建築』1952年2月号より

3-5 第二研究室配置図『新建築』1952年2月号より

3-5 第二研究室配置図『新建築』1952年2月号より

3-6 第二研究室 東面入口側を望む 撮影:平山忠治

3-6 第二研究室 東面入口側を望む 撮影:平山忠治

3-7 第二研究室 階段ホール 撮影:平剛

3-7 第二研究室 階段ホール 撮影:平剛

3-8 第二研究室 玄関ホール 撮影:平剛

3-8 第二研究室 玄関ホール 撮影:平剛

新萬來舎の室内デザイン

3-9 新萬來舎 入口より南側「床の間」を見る 撮影:平山忠治

3-9 新萬來舎 入口より南側「床の間」を見る 撮影:平山忠治

図6【3―9】は、入口から新萬來舎を眺めた竣工当時の写真である。新萬來舎の最大の特徴としては、部屋の中心に設置された二本の円柱とその間の暖炉を中心に、床部分が「石」「木」「畳」の三つの部分に分かれていることがあげられよう。室内デザインのコンセプトについては、ノグチ自身が的確に記述しているテキストがあるので、それを引用しておこう。

その部屋は、三つのレヴェルに計画された。一つは、歩く為の石を敷いたレヴェル、第二のより高いレヴェルは、歩く為と坐る為と両方の為の木の床のレヴェル、第三は、畳(日本の厚い藁のマット)のレヴェルで、日本式にも西洋式にも坐る事の出来る所で周囲に沿ってつくられた。そして、一部分には、編み細工のもたれがつくられた。この設計の目的は、家具を除いた畳のレベルの平面を出来るだけ多く保ち、同時に、西洋式の動き廻る自由と椅子に腰掛ける安楽さとを許す事であった。
設計の中軸は、大きな円い(直径5呎の)暖炉である。それは、パイ型の石で、空気を通す為に少し上下の間をあけ、そして、日本式に坐った時に、火鉢兼テーブルの役目をするように持ち上げられて居る。地震に備えて、床を持ち上げ支えるコンクリートの笠がつくられた。又、そこには、一番低いレヴェルの所に、図書室の部分と大きな嘱託がつくられ、茶卓と幾つかの床几とが置かれる。(*9)

このようにノグチは、床部分を「石」「木」「畳」の三つのレベルに分けることにより、西洋的と東洋的、そして日本的な要素を融合させる試みを行った。実際には暖炉の上に取りつけられる笠はコンクリート製ではなく金属製になり、「図書室」部分は石のレベルではなく木のレベル、すなわち入口を入ってすぐ左手の北側コーナー【3―10】に設けられることになるなど、テキストで述べられている構想とは若干変更があったが、一番低い石のレベルの西側コーナーには計画通り七〜八人が座ることができる楕円形テーブルと籐製のソファー一対が設置され【3―11】、室内には、小品の家具としてコーヒーテーブル一つと小スツール四脚が備えられた【3―12】。いずれもイサム・ノグチが工芸指導所においてデザインした家具調度類である。

3-10 新萬來舎 北側コーナー 木製スクリーンと書棚 撮影:平剛

3-10 新萬來舎 北側コーナー 木製スクリーンと書棚 撮影:平剛

3-11 新萬來舎 西側コーナー 楕円形テーブルとソファー 撮影:平剛

3-11 新萬來舎 西側コーナー 楕円形テーブルとソファー 撮影:平剛

3-12 新萬來舎 南側コーナー コーヒーテーブルと小スツール 撮影:平山忠治

3-12 新萬來舎 南側コーナー コーヒーテーブルと小スツール 撮影:平山忠治

一番高い「畳のレベル」の壁面(南面)には、日本式の「トコノマ(床の間)」が設けられている。ノグチはこの談話室のデザインにあたって、「詩人の室の形式をとった(*10)」と発言していることから、おそらく一カ月ほど前に身をおいた京都・詩仙堂での体験が色濃く投影されているのであろう。竣工当時に撮影された写真(図6【3―9】)を見ると、「トコノマ」には埴輪が置かれ、右手のテラコッタ・タイルによる装飾壁面と緊密な呼応関係を生みだしている。三越のイサム・ノグチ作品展に先立ち、ノグチが陶芸の中心地である瀬戸へ赴きテラコッタの作品を制作したことは先述の通りであるが、テラコッタという素材への執着が日本固有のプリミティヴな造形作品である埴輪に特別なインスピレーションを受けたからであろうことは想像に難くない。新萬來舎のテラコッタ装飾壁面は、二十八センチメートル四方のタイル九十八枚を組み合わせた作品で、表面にはノグチ自身の手による多様なスクラッチ装飾が施されている。瀬戸で日本の陶芸技法を習得したノグチの一つの成果と認められよう。

また竣工時の写真(図6【3―9】)を見ると、室内の中軸となっている暖炉の周辺にはワラ製の敷物が置かれており、日本の古民家における囲炉裏のイメージが導入されている。この暖炉は東側の円柱に煙突の構造が設けられており、火をつけて利用できるよう設計された。しかし実際に使用してみたところあまりうまく煙が通らず部屋中に煙が充満してしまったためやがて火を使うことは禁止された、というエピソードが残っている。

この他、新萬來舎に認められるもう一つの大きな特徴は、部屋全体がもつ東西方向への「開放性」である。談話室はスチール・サッシの引き戸によって東側キャンパス空間に大きく開かれ、福澤諭吉が唱えた「萬來」の精神を具体化するように学生と教職員のアクセスを歓迎している【3―13】。また西側にも同様の引き戸が配され、西側空間への視野も大きく確保されている。この東西方向への開放性は、若い学生の生命的空間と戦没死者の空間、活動と黙想、教育と実践、大学と社会などを象徴していると考えられ、談話室が両者の結びつける空間として独自の存在意義を有することを暗示している(*11)。

3-13 新萬來舎 南側コーナーよりキャンパス側を見る 撮影:平剛

新萬來舎は戦後最初の空間芸術における日米共同プロジェクトであると同時に、ノグチにとっては一九五〇年の時点においてコンクリート、石、木、鉄、テラコッタ、藁、葦、紙など多種多様な素材を用いて空間の構成を試みる実験の場でもあった。新萬來舎はイサム・ノグチとその父・野口米次郎を記念する空間として、後に塾内では「ノグチ・ルーム」と通称されるようになった。

新萬來舎の庭園と三つの彫刻作品

室外に目を転じてみると、建物東側の植え込みにはキャンパスを往来する学生たちに紛れ込ませるように、鉄製彫刻《若い人》(一九五〇年、鋳造鉄板、二〇〇センチメートル)が設置された(図7【3―14】)。《若い人》は、ノグチが一九四四年から始めた一連のスラブ彫刻作品(大理石、鉄などを板状にしたパーツを組み合わせて空間を構成する彫刻)の流れを汲むもので、シュールレアリスティックな抽象表現を特徴とする(*12) 。谷口吉郎の美意識に基づき「四号館」の前庭に菊池一雄の《立像青年》が設置されたことはすでに述べた通りであるが、ノグチは同じ「若者」という題材を用い、菊池とはまったく正反対の方法によってこのテーマを表現した。こうして三田山上には、「具象」と「抽象」二つの青年像が対置されることとなったのである。

3-14 東面と彫刻〈若い人〉 撮影:平山忠治

3-14 東面と彫刻〈若い人〉 撮影:平山忠治

一方、新萬來舎西側には「しゃもじ形」の玉砂利をひいた回遊路をもつ小さな庭園【3―15】がデザインされ、そこには石製の彫刻《無》が配置された(図8【3―16】)。談話室西側サッシからテラスに出て右手に進むと、ノグチによるバイオモルフィックなデザインの施されたコンクリート製衝立をもつ藤棚が設けられ、その下には石製のベンチが置かれている【3―17】。談話室での議論に疲れた人が外の空気を吸うため庭へ出てこのベンチに座ってしばし思索にふけった後、しゃもじ形の回遊路をまわって彫刻《無》と対面するようデザインされており、談話室と連続するユニークな造形空間となっている。

3-15 屋上より西側庭園を俯瞰する 撮影:平山忠治

3-15 屋上より西側庭園を俯瞰する 撮影:平山忠治

3-16 西面テラスと彫刻〈無〉 撮影:平山忠治

3-16 西面テラスと彫刻〈無〉 撮影:平山忠治

3-17 西面テラスを南側より望む 撮影:平山忠治

3-17 西面テラスを南側より望む 撮影:平山忠治

彫刻《無》(一九五〇―五一年、白河石、二二九センチメートル)は、上述したように室内の家具類とともに工芸指導所で石膏原型が制作され、一九五〇(昭和二十五)年八月のイサム・ノグチ作品展に出品された。展覧会終了後、石膏原型をもとに当時イサム・ノグチの助手を務めていた彫刻家・広井力と石工が白河石に加工し、庭園の完成後談話室正面に設置された。《無》は親指と人差し指でつくった円のような形を特徴とする作品で、その題名が禅の用語からとられているため、禅僧の描く「円相」に関連して解釈する研究者も少なくない(*13)。しかし一方でノグチは、

その建てられる場所は、樹立多く、そして慶應の生れた丘であるアクロポリスの上に位置する、そして、西の方に石の彫刻《無》の穴をとおして、パノラマ的な風景が展開する。(*14)
あるいは、
この計画が、新らしい第二研究室の建物の中にそれと一体になってつくられる場所を見出し得たのは最も幸せでした。視界は西に向ってひらけ、沈んでいく太陽が、私の彫刻《無》をシルエットにして浮き出させ、天上からの光りで点火してそれを石燈籠のようにします。(*15)
などと語っており、作品の開口部から三田山上西側のパノラマ風景を眺望するという機能や、太陽光線によって劇的な効果をもたらす【3―18】ことも意図されていたようで、ノグチが造形デザインにおいていかに周囲の空間環境を意識していたかを示す興味深い作例となっている。ノグチは後に一九五九年から一九六九年まで大理石、鉄、ブロンズなど様々な素材を用いて円環彫刻《太陽》シリーズ【3―19】を制作するが、《無》はその先駆的作例として彼の作品中でも重要な位置を占めている。

3-18 夕日に映える〈無〉

3-18 夕日に映える〈無〉

3-19 イサム・ノグチ〈黒い太陽〉1969年 大理石 シアトル美術館蔵

3-19 イサム・ノグチ〈黒い太陽〉1969年 大理石 シアトル美術館蔵

西側庭園の北側には、鉄棒を組み合わせた彫刻《学生》(一九五一年、鋳造鉄棒、四〇五センチメートル)が、回遊路から藤棚のコンクリート製衝立を通して眺められるよう設置された(図9【3―20】)。この作品だけは一九五〇(昭和二十五)年八月のイサム・ノグチ作品展に発表されていないことから、おそらく一九五一(昭和二十六)年、第二研室の建設中に急遽構想され追加されたものと思われる。

3-20 西側庭園から藤棚の支柱を通して〈学生〉を見る

3-20 西側庭園から藤棚の支柱を通して〈学生〉を見る

《学生》は高さ四メートルにおよぶ背の高い彫刻で、平和な学園の自由な雰囲気の中、学生が折りとじの本をぱたぱたと開いているところをイメージした作品であると伝えられ(*16) 、ノグチ自身も、

碧空に向って聳える鉄の彫刻《学生》は、抱負溢れる学生諸君への私からの捧げものです。(*17)
と記している。しかし後にノグチは自伝において
十五フィートある溶接した《学生》の方は、空を背にして下からしか見られないので、あまり成功ではなかった。(*18)
とも語っており、その出来栄えについては十分に満足できなかったようである。

この《学生》に関しては、同時期広島の平和記念公園のために設計され三越のイサム・ノグチ作品展に模型が発表された《ヒロシマの鐘楼(ベル・タワー)》(図10【3―21】)との類似性が連想される。《ヒロシマの鐘楼》は、木の棒を垂直に組み合わせ、その内側にテラコッタ製の小品彫刻をいくつか吊るしたもので、実際の作品としては実現しなかったが、新萬來舎の《学生》、そしてその直後に制作されたリーダーズ・ダイジェスト東京支社ビル庭園の鉄製噴水彫刻【3―22】につながる一連の鉄線彫刻作品に属するものである。

3-21 イサム・ノグチ〈ヒロシマの鐘楼〉1950年 The Isamu Noguchi Museum HP より

3-21 イサム・ノグチ〈ヒロシマの鐘楼〉1950年 The Isamu Noguchi Museum HPより

3-22 イサム・ノグチ〈リーダーズ・ダイジェスト・ビル庭園〉1951年

3-22 イサム・ノグチ〈リーダーズ・ダイジェスト・ビル庭園〉1951年

「鐘楼」というモティーフに着目するならば、ノグチは三越のイサム・ノグチ作品展において、会場の黒い壁面に白墨で釣鐘の絵を描き、これに父・野口米次郎(ヨネ・ノグチ)が臨終の五分前に作ったといわれる短い詩、

かねがなる かねがなる これがけいしょうなんです けいしょうがなると みんながねるんですよ おまえたちもねるんですよ
を添える、というパフォーマンスを行った(*19)(図11【3―23】)。

3-23 鐘楼の壁画とイサム・ノグチ The Isamu Noguchi Museum HP より

3-23 鐘楼の壁画とイサム・ノグチ The Isamu Noguchi Museum HPより

さらに『芸術新潮』昭和二十六年十月号の「造型ニッポン」というグラビア記事には、ノグチ自身が撮影した日本各地の風景写真が彼の作品と組み合わされて紹介されているが、ここで注目すべきは《学生》およびリーダーズ・ダイジェスト庭園の作品が日本の火の見櫓と並べて紹介されていることである。八代修次教授によれば、新萬來舎の西側庭園左手には芝消防署三田出張所があり、当時庭園から火の見櫓の鉄塔が見え【3―24】、それがノグチの《学生》とコントラストをなしていたという(*20) 。これらを総合して考えると、庭園から見える火の見櫓の存在がきっかけとなり、それと対をなすように新萬來舎の庭園に急遽《学生》が追加されたという可能性も否定できないのである。

3-24 西側庭園から消防署の火の見櫓を眺める

3-24 西側庭園から消防署の火の見櫓を眺める

いずれにせよ、《若い人》、《無》、《学生》という、素材もスタイルも異なる三つの彫刻作品が一九五一年の時点で新萬來舎の庭園のために構想され制作されたことは、イサム・ノグチのキャリアを美術史的に考証する上でも、戦後の世界美術史を考える上でも特筆すべき事実である。

イサム・ノグチの「彫刻的風景」

以上考察してきたように、イサム・ノグチは「新萬來舎/ノグチ・ルーム」によって二十世紀美術史に残る造形空間を三田キャンパスにもたらした。一方で「新萬來舎」とその庭園は小規模ながらノグチが初めて実現した「環境芸術作品」であり、後に世界各地で実現した大規模な庭園プロジェクトやランドスケープ・デザインによって知られるようになるこの彫刻家にとって、一つの出発点となる重要な仕事であった。

新萬來舎の完成から五年後の一九五六年、ノグチは建築家マルセル・ブロイヤー(一九〇二―一九八一)の勧めでパリの「ユネスコ本部の庭園」(図12【3―25】)を手がけることとなる。この庭園のデザインにあたりノグチは、日本に石材の寄贈を求め、関西地方から八十八トンの岩石を集め、三人の日本の庭師をパリに招き、ユネスコ本部庭園のデザインにかつて京都で体験した日本庭園のモティーフを導入した。ユネスコ本部の庭園においてノグチは、上下の高低差のある土地の高い方に岩石を用いて彫刻的庭園を造り、座席の一部を茶の湯の席に見立てた。また低い方には京都の回遊式庭園をイメージした日本庭園とし、歌舞伎の花道をヒントに小径や踏み石など日本的モティーフをふんだんに取り入れたのであ 。「ユネスコ本部庭園」によりノグチは、庭園デザイナーとしても不動の名声を博することになる。

3-25 イサム・ノグチ〈パリ・ユネスコ本部庭園〉1956_58年 The Isamu Noguchi Museum HPより

3-25 イサム・ノグチ〈パリ・ユネスコ本部庭園〉1956_58年 The Isamu Noguchi Museum HPより

ノグチにとって「彫刻」とは、独立した作品をただ並べればいいものではなく、配置された作品を相互に関連させ人々の日常生活と結びつけることにより、一つの「世界」を作り出すことであった(*22)。このことをノグチは、「彫刻的風景」と呼んでいるが、この「彫刻的風景」の理念は、「新萬來舎/ノグチ・ルーム」の空間デザインにも確かに息づいているといえよう。

第二研究室の解体とノグチ・ルームの移築保存計画

慶應義塾は二〇〇一年十月新大学院構想検討委員会を設置し審議を進め、二〇〇二年一月新しい法科専門大学院を設立することを決定し、新校舎建設を具体的に検討する「新大学院環境整備検討委員会」を発足させた。この委員会は新校舎の建設についても検討を進め、二〇〇二年三月第二研究室の占める場所に約五千坪の面積をもつ新校舎を二〇〇五年四月までに建設する計画立案を決定した。コンペによる設計業者選定を経て、基本設計作業が終了。二〇〇三年一月評議員会で承認され、正式に第二研究室の取り壊しと新校舎建設が決定した。この計画では、イサム・ノグチのデザインによる「新萬來舎/ノグチ・ルーム」はいったん解体され、彫刻、庭園とともに新校舎の三階部分に移築・保存されることとなった(*23)。

この決定に対し新校舎建設計画が発表された二〇〇二年夏以降、一部教員や建築関係者から解体・移築への反対運動がおこった。彼らは「保存を要望する会」などを結成し、慶應義塾に対し計画変更による建物の現状保存を求める署名運動を行い、計画の凍結と見直しを要望した。しかし大学当局との話し合いは平行線をたどり、ついに二〇〇三年三月移築に反対するグループはイサム・ノグチの著作権を管理する米国イサム・ノグチ財団とともに東京地裁に工事中止の仮処分を申請するという事態にまで発展した。

この仮処分申請の審理では、新萬來舎が解体・移築されることによって著作権法二十条に規定されている「著作者人格権」の「同一性保持権」が侵害されるのか否かということが争点となった。「同一性保持権」について著作物として音楽作品を考えた場合を例に簡単に説明してみたい。例えばAさんが作曲したある音楽作品(楽曲)があったとする。この楽曲には制作者であるAさんの著作権が認められているので、たとえばBさんが勝手にその一節を他のメロディーに変えてAさんの曲として発表した場合、「著作者人格権」の「同一性保持権」が侵害された、と判断することができる。今回のケースでは、この「著作者人格権」の「同一性保持権」侵害が、はたして建築物や芸術空間にも適用しうるのか否かが問題となったのである。

すでにこれまで見てきたように、イサム・ノグチにとって彫刻や庭園作品は、たんに独立した作品や要素を並べたものではなく、配置された作品を相互に関連させ人々の日常生活と結びつけることにより、空間全体がひとつの「世界」を作り出すことに他ならなかった。「第二研究室」および「新萬來舎/ノグチ・ルーム」の設計・デザインにおいて谷口とノグチが演説館との関係性を重視したこと、また新萬來舎の最大の特徴がキャンパス空間と連続する東西に開かれた開放性であることはすでに考察した通りであるが、それが新校舎の三階に移築された場合には、ノグチ・ルームがキャンパス・レベルから遊離するによって演説館との関係性や東西に開かれた開放性が失われてしまうことになる。つまり谷口―ノグチの芸術空間である「新萬來舎/ノグチ・ルーム」の「同一性」が「保持できない」ということになる。二〇〇三年三月に行われた仮処分申請に対して東京地裁は、裁判官三人で約三カ月かけて審理するという異例の対応をとった。なぜなら文化財建築物の著作権をめぐって司法の判断が問われたケースは、ほとんど前例のないことであったからである。

二〇〇三年六月十一日、東京地裁は日本の著作権法では「著作者人格権」は制作者の一身に専属するものであって制作者の死後にこの権利は譲渡できない、と規定されていること、また実用の目的で利用されている「建築物」の場合、一定の範囲で著作権を制限し所有者による「増改築」を認める、という例外規定があることなどを総合的に判断し、「移築によって作品の同一性は失われる」と原告側の主張に一定の理解は示したものの、イサム・ノグチ財団が「著作者人格権」を有するとは認められない、として申請自体を却下する判断を下した(*24)。この判断を受け、二〇〇三年六月下旬より解体工事が開始され、第二研究室および新萬來舎は跡形もなく取り壊されてしまった。新萬來舎部分の部材は保存され、新校舎の竣工にあわせて三階部分に移築・復元される計画であるが、現在私たちは純粋な意味でそのオリジナル空間を体験することはできなくなってしまった。

ここ数年、滋賀の豊郷小学校や東京の正田邸、同潤会青山アパートの解体をめぐる反対運動など、日本各地で文化財建築物の解体・保存をめぐって様々な議論がおこった。こうした中、慶應義塾大学三田キャンパス「新萬來舎/ノグチ・ルーム」の解体・移築の是非をめぐる問題は、芸術空間に対する著作権法の限界を露呈させるなど、我が国の文化財建築物保護に関する議論に一石を投じた事例であったといえる。

ノグチ・ルーム・アーカイヴの公開

私の所属する慶應義塾大学アート・センターでは、この解体・移築問題がおこるはるか以前の一九九八年四月から「新萬來舎/ノグチ・ルーム」の芸術的・文化財的価値に注目し、竣工当時の建築資料や文献資料の収集、関係者へのインタビュー取材実施や現状記録の作成など研究アーカイヴを構築する「ノグチ・ルーム・アーカイヴ」プロジェクトを進めてきた。

新萬來舎はノグチの作品集や研究書のほとんどが彼の代表作として言及しているにもかかわらず、図版の多くが竣工当時のモノクロ写真のみによる紹介でしかなかった。世界中の多くの建築家、デザイナー、美術史家、建築・デザインの研究者が新萬來舎の空間を実見してみたいという潜在的希望をもっているにもかかわらず、部屋の管理あるいは作品保全の観点から、完全な一般公開はされてこなかった。

新萬來舎に限らず美術品の公開には常に一つの大きな矛盾がつきまとう。美術品は人の眼に触れなければ本来の機能を果たせないわけであるが、それを展示・公開することは同時に美術品を照明や温湿度変化にさらすことになり、作品の劣化を確実に促進させる。また輸送の際に生じる振動や、人為的な事故、災害による損傷を考えると、展示・公開が背負うリスクは計りしれないといえる。

このような状況の下、近年美術館・博物館において注目されている話題の一つが「デジタル・アーカイヴ」という手法である。美術品、博物資料、古文書、貴重書などその稀少性から一般公開に制限を設けざるをえない作品・資料をデジタル化することによって高精彩画像を公開し広く学生レベルの研究者にまで閲覧可能にすることができれば、様々な教育的効果や学問分野を横断する新たな研究成果が生まれる可能性が期待される。

アート・センターにおける「ノグチ・ルーム・アーカイヴ」は、建築資料や文献資料の収集・保存・公開という本来のアーカイヴ(文書館)的機能と、デジタル・メディアを駆使した「新萬來舎/ノグチ・ルーム」ヴァーチャル空間の公開という博物館的機能の二つの側面を備えている。歴史的文化財が変容もしくは消滅するという昨今の状況下において「ノグチ・ルーム・アーカイヴ」の活動は、いかに空間芸術のオリジナリティーを保存し再現していくかという点において一つの指針を示す実験になるであろう。

本講座の第二回でも紹介したが、アート・センターのホームページでは「新萬來舎/ノグチ・ルーム」の室内と庭園を三六〇度パノラマで撮影し編集したムービー画像を公開している。このデジタル・アーカイヴは、上述したように本来作品保護と情報公開を兼ねた一手段として制作されたものであるが、皮肉なことに今となっては新萬來舎のオリジナル空間を体験できる唯一の手段となってしまった。ウェブサイトを閲覧可能な方はぜひこの空間を体験していただきたい。

二〇〇四年は、谷口吉郎とイサム・ノグチの生誕一〇〇年の年にあたり、この二人の名前を聞く機会も多かった。とくにイサム・ノグチは、彼が最晩年に設計を担当し最後の作品となった札幌市モエレ沼公園のプロジェクトが一七年の歳月を経て二〇〇五年夏グランド・オープンを迎える。また香川県高松市郊外の木田群牟礼町には、ノグチの日本の仕事場であった場所に「イサム・ノグチ庭園美術館」がある。ノグチは一九六九年から庵治石の産地と知られる牟礼に日本における活動拠点としてアトリエをかまえ、一九八八年に亡くなるまでアメリカと日本を行き来し制作活動を展開した。庭園美術館にはノグチが江戸時代末期の豪商の家屋を移築して住んだ「イサム家」をはじめ、アトリエや彫刻作品がそのまま保存され公開されている。見学にはハガキによる事前予約が必要であるが、近くへ行く機会があったらぜひ立寄ってノグチの創造空間を体験していただきたい。

この他、イサム・ノグチの作品は、東京国立近代美術館や神奈川県立近代美術館鎌倉館、横浜美術館など各地の美術館で鑑賞することができる。またアート・センターのホームページには、谷口吉郎とイサム・ノグチに関する評伝や研究書などを基本的な参考文献として紹介してあるので、さらに詳しく知りたい方は、これらを手がかりにして学習に役立てていただきたい。

  • (1)谷口吉郎、「彫刻と建築」、『新建築』一九五〇年一〇月号、三〇九頁。
  • (2)三越百貨店の「イサム・ノグチ作品展」は当初ノグチの作品を紹介する「写真展」として提案されたが、ノグチ自身の希望により実際に作品を陳列する「作品展」として開催されることとなった。展覧会開催の経緯については、イサム・ノグチ、「私の見た日本」、長谷川三郎訳、『芸術新潮』一九五一年十月号、一〇二頁を参照。
  • (3)木田拓也、「あかり―イサム・ノグチが作った光の彫刻」、『あかり―イサム・ノグチが作った光の彫刻』展図録、東京国立近代美術館、二〇〇三、一〇頁。
  • (4)剣持勇、「工芸指導におけるイサム・ノグチ」、『工芸ニュース』第一八巻第一〇号、二〇頁。
  • (5)猪熊弦一郎、「無」、『みづゑ』五四〇号(昭和二十五年十月号)。
  • (6)前掲(4)、剣持勇、「工芸指導におけるイサム・ノグチ」、二三頁。
  • (7)谷口吉郎、「慶應義塾大学第二研究室(万来舎)」、『谷口吉郎著作集』第四巻、淡交社、一九八一、二〇四頁。(『新建築』一九五二年二月号に初出)
  • (8)谷口吉郎、「彫刻と建築」、『新建築』一九五〇年一〇月号、三〇九頁。
  • (9)前掲(2)、イサム・ノグチ、「私の見た日本」、一〇二頁。
  • (10)前掲(2)、イサム・ノグチ、「私の見た日本」、一〇二頁。
  • (11)前田富士男、「ノグチ・ルーム/第二研究室の保存問題:慶応義塾大学三田新校舎建設計画をめぐって」、「慶応義塾大学アート・センター年報』第十号、十四頁。
  • (12)ノグチのスラブ彫刻と《若い人》との関係については、八代修次、「慶応義塾とイサム・ノグチ」、『哲学』(三田哲学会)第七十六集、三田哲学会、一九八三年、一〇九―一一一頁を参照。以下、本稿における新萬來舎の彫刻と庭園に関する記述・解釈は、八代修次教授のこの論文に多くを負っている。
  • (13)前掲(12)、八代修次、「慶應義塾とイサム・ノグチ」、一一一頁。
  • (14)前掲(2)、イサム・ノグチ、「私の見た日本」、一〇二頁。
  • (15)イサム・ノグチ、「仕事について」、『新建築』一九五二年二月号、九頁。
  • (16)新萬來舎建設当時イサム・ノグチの助手であった彫刻家・広井力氏の談話による。
  • (17)前掲(15)、イサム・ノグチ、「仕事について」、九頁。
  • (18)イサム・ノグチ、『ある彫刻家の世界』、小倉忠夫[訳]、美術出版社、一九六九、一七〇頁。
  • (19)『新建築』一九五〇年一〇月号、三〇九頁の挿図参照。
  • (20)前掲(12)、八代修次、「慶應義塾とイサム・ノグチ」、一二〇頁、註十七参照。
  • (21)前掲(12)、八代修次、「慶應義塾とイサム・ノグチ」、一一六頁。
  • (22)前掲(12)、八代修次、「慶應義塾とイサム・ノグチ」、一一二頁。
  • (23)慶応義塾が発表した移築・保存案いついては、大学が公開している広報資料、http://www.keio.ac.jp/news.030308.html を参照。
  • (24)松本良一、「慶大「ノグチ・ルーム」解体へ」、『読売新聞』二〇〇三年六月十六日夕刊。

〔やない やすひろ 慶應義塾大学アート・センター・キュレーター。近現代美術史・美術館学。一九九五年慶應義塾大学大学院文学研究科美学美術史学修士課程修了。箱根ガラスの森美術館学芸員を経て、一九九八年より現職。主要業績―「慶應義塾旧図書館ステンドグラスの図像成立と構想案に関する一試論」、『伝統と象徴―美術史のマトリックス』、沖積舎、二〇〇三。「演説姿の福澤諭吉肖像画に関する覚書」、『日本美術の空間と形式』、二玄社、二〇〇三。〕