谷口吉郎とイサム・ノグチ 慶應義塾の近代建築とモダン・アート I
ラジオNIKKEI(旧ラジオたんぱ) 慶應義塾の時間
第二次世界大戦後の世界にみる近代美術
前田富士男
慶應義塾大学三田キャンパスは第二次世界大戦で大きな被害をうけたが、一九四七年の義塾創立九〇年を契機に復興にむけて歩みだした。まだ戦後の混乱が続くなか、キャンパスの復興計画を委託された建築家谷口吉郎(一九〇四―一九七九)は、三田山上という場所のもつ意味に思いをはせると同時に、新しい時代に歩みだそうとする 剌とした建築空間を具体化しようとしていた。まさにその時、この構想を実現に導く人物がたまたまアメリカから来日する。一九五〇年初夏のこと、彫刻家イサム・ノグチ(一九〇四―一九八八)である。
キャンパス西南端に建設された「第二研究室」とその一階南側部分の談話室「新萬來舎」は、時代の新しいコミュニケーションを空間化しようとする建築家谷口吉郎と、芸術ジャンルや文化圏を自由に横断する彫刻家イサム・ノグチの二人が三田で出会い、実現した稀有な傑作にほかならない。二〇世紀の世界美術史にてらしてみても、建築家と彫刻家によるこの国際的な共同制作は、モダニズムのアート・シーンで特筆に値する出来事といわざるをえない。
本講座は、「谷口吉郎とイサム・ノグチ―慶應義塾の近代建築とモダン・アート」と題し、五回にわたって谷口とノグチによるコラボレーションの意味を作品に即して、具体的に検討してゆく内容である。
さて、慶應義塾大学アート・センターは一九九三年に開設された大学付属の研究所で、現代的な観点から美術、音楽、演劇、身体表現、文学などの諸芸術を領域横断的に研究しており、レクチャー・コンサート、シンポジウム、ワークショップなどの催事、研究会、アート・マネージメントに関する講座、さらには芸術家の制作活動に関する資料を個別的に収集・調査・研究するアーカイブの活動などを行っている。アート・センターが所蔵するアーカイブ資料には、土方巽、瀧口修造、油井正一とともに、イサム・ノグ チの建築資料がある。今回のこの講座は、そうした資料研究をふまえる意味からも、文学部美学美術史学専攻で西洋美術史を担当するとともにアート・センター所長も務めている私と、アート・センターのキュレーター(学芸員)である柳井康弘氏が五回にわたって担当することとなった。
今回の講座については新しい試みとして、慶應義塾大学アート・センターのホームページ内にこの講座のホームページを作成した。本文中の【】内の図版番号はホームページ該当箇所の図版に対応しているので、参照していただきたい。むろん、パソコンを使用されない方もいるだろうから、参考程度だが、活用して頂ければ幸いである。この講座のホームページは、慶應義塾のホームページから「研究所等」↓「アート・センター」↓「イベント・スケジュール」と進み、最上段の二〇〇四年一月の本講座名を クリックして見ていただきたい(URLは、http://www.art-c.keio.ac.jp/noguchi.html)。
新萬來舎誕生
まず、谷口吉郎とイサム・ノグチを紹介しよう。現代日本は世界的に有名な建築家を輩出しているが、その日本の現代建築の礎を築いた代表的な建築家が谷口である。愛知県犬山市の「明治村」は、有名なアメリカの建築家フランク・ロイド・ライトの帝国ホテルはじめ、わが国の代表的な近代建築を豊かな自然環境の中に移築して保存する機関だが、その「明治村」開設に建築家として努力したのが谷口でもあった。日本における近代建築の歴史的意義を建築家としてアピールしようとした谷口の使命感がよくうかがえる活動であろう。谷口の作品には、島崎藤村記念堂(一九四七)ほか、東京国立博物館東洋館(一九六八)、東京国立近代美術館(一九六九)がある。谷口はまた、慶應義塾の建築を数多く手がけてもいる。第二次世界大戦前には慶應義塾の日吉キャンパス、塾内で「イタリア半島」と呼ばれる高校南側の台地先端部にある日吉寄宿舎(一九三八)を、そして大戦で甚大な被害を蒙った三田キャンパス復興のために多数の建築作品をのこした。これらについては次回、柳井氏の講義を参照していただきたい。
つぎに、イサム・ノグチである。カタカナで表記されるのはアメリカの彫刻家だからであるが、父はかつて慶應義塾大学で教壇にたった詩人野口米次郎、母親はアメリカ人で、ロサンゼルスで一九〇四年に生まれた。初めは医学を学び、やがて彫刻家を志した。パリで彫刻家ブランクーシに師事し、その後アメリカ、ヨーロッパ、中国、日本などを旅して創作の糧とした。二〇世紀を代表する世界的な彫刻家である。彼の彫刻の特徴は、東洋的もしくは日本的というべき非常に省略のきいた完結性、抽象性にある。と同時に他方では、人物像表現を中心とするヨーロッパの伝統を身につけてもいる。したがって野口の活動は、第二次世界大戦後に顕著となる国際性、つまり西洋的な伝統と東洋的な感覚を統合したインターナショナルな特性、言いかえれば、個別の表現領域を横断する独特なひろがりを帯びている。実際、彫刻といっても単独の自立した造形作品と呼ぶより、むしろ環境デザインといったほうがふさわしい。たとえば、パリのユネスコの本部につくった日本的な石庭(一九五六―五八)は、一種の環境彫刻作品で、彼の代表作として名高い。もちろん、素晴らしい単独作品の彫刻も多い。庭園、公園などの空間造形、それから室内デザイン、あるいは家具デザインなど幅広い造形で、また有名な「あかり」という照明器具シリーズは、提灯にヒントをえた作品で、全世界で今もなおきわめて高く評価され、愛されている。
ノグチと谷口は同じ一九〇四年生まれ。奇しくも第二次世界大戦後の三田構内で、新しいキャンパスの建築のために出会うわけである。二人は協力して世界的にモダンアートの傑作と評価される作品を作り上げることとなる【1―1】。第二研究室と呼ばれる建物は、演説館北側に位置する教員用研究室棟で、この二人の共同作業から「新萬來舎」と呼ばれる空間が制作された。この部分は第二研究室棟の玄関から入って南側に設けられた部屋で、教員と来客、あるいは教員と塾生の語らいの場として作られた。西側には庭園を設け、また庭園内と玄関外側に置く彫刻三点があらたにノグチによって制作された【1―2】。つまり、室内デザイン、その中の家具、暖炉、照明器具、また西側の庭園、彫刻が野口の作品で、建築はむろん谷口による。まさに空間総合的な作品にほかならない。
1-1 イサム・ノグチと谷口吉郎(三越百貨店における個展会場にて)1950年 撮影:渡邊義雄
1-2 イサム・ノグチ〈新萬來舎(ノグチ・ルーム)〉1951年 慶應義塾大学三田キャンパス 撮影:平剛
この制作過程で二人は絶えず意見交換を行っており、建築家と彫刻家の、世界的にも稀にみるコラボレーションにもとづく作品である。大戦中は銃口をむけて互いに戦った日本とアメリカという二つの国のそれぞれのアーティストが、戦後初めて、芸術をとおして協力してひとつの作品を実現させた記念碑的作品といって過言ではない。われわれはともすると忘れがちだが、第二次世界大戦で多くの日本人、そして多くの慶應義塾の学生が帰らぬ人となった。まだ三田の構内も、そうした痛ましい記憶のさなかにあった戦後間もない時期ゆえ、戦争で亡くなった学生、塾員の鎮魂もこめてつくられた作品が「新萬來舎」にほかならない。残念ながらこの建物と庭園は新校舎建築のために目下撤去され、工事中だが、「新萬來舎」部分は新校舎建築が完成した暁には再び復元される予定である。
近代美術の潮流―純粋性
二人の作品が結実した一九五一年、つまり第二次大戦後に再び芸術活動が再開される時期のアート・シーン、美術の世界的状況を考えてみよう。
そのためにまず、近代美術とは何か、モダン・アートとは何か、という問題を確認しておかねばならない。「近代」という概念は多様な意味をもつが、通常は一七八九年のフランス革命以後、ほぼ一八〇〇年頃からを指す時代概念である。市民たち自身の手になる法律や社会制度、つまり市民社会の確立が近代とされるわけだが、美術の領域でもおおよそこの頃からを「近代美術」と呼んでいる。たとえば、一例に画家をあげれば、スペインのゴヤ、イギリスのターナー、フランスのドラクロワなどの有名な画家たちが登場する時期である。 こうした趨勢がやがて一八七四年から始まる印象主義の絵画に結実するといってよい。つまり、やや厳密に美術における「近代」を論じる場合、われわれは印象派のモネ、ピサロ、シスレー、セザンヌ、ルノワールといった画家たちに近代美術の始まりを認めている。なぜなら、具体的に絵画における近代性の特徴を指摘するとき、二つの特徴をあげることができるからだ。第一に、「物語」を描出しないこと。ヨーロッパ絵画には、基本的にキリスト教的なテーマ、つまりキリスト生誕の場面や磔刑の場面などを描く、という宗教画の伝統がある。あわせてギリシアやローマなど古典古代の神話を、アポロンやビーナスなど神々や英雄の物語を描く歴史もある。しかしこうした「物語」を否定し、線・明暗・色彩の織りなすイメージそのものを重視すること、それが近代絵画の第一の特性なのである。
第二に、可視的な世界を忠実に再現する表現を「自然主義」というが、その「自然主義」の否定である。すなわち、人間の肌は肌らしく、水面は水面らしく、眼に見える世界を模写すること、再現的に描写すること、その否定である。この二点の特徴を考えれば、モネの作品(図1【1―3】)や抽象絵画の登場(図2【1―4】)に「近代性」が確認できるだろう。モネの作品の場合にはなるほど、まだ現実表現への志向が働いているけれども、しかしもはや克明に可視的世界を再現しようとはしていない。自由に色彩、明暗を使いこなしてゆく。空も水面も建物も同じ描法である。抽象絵画になると、カンディンスキーの作品のように(図2)、純粋に線・明暗・色彩の世界になる。
1-3 モネ〈印象・日の出〉1873年 油彩パリ マルモッタン美術館蔵
1-4 カンディンスキー〈最初の抽象画〉1913年 水彩 パリ ポンピドー・ センター蔵
絵画ではなく、建築についても同様の指摘が可能である。ヨーロッパ建築に不可欠だった装飾的表現が拒否されてゆく時代だからである。建築の装飾とは一種の物語性への関心とみなして差しつかえない。万国博を記念して一八八九年、パリにエッフェル塔が登場する。塔は技術的な産物で建築ではないと反論されるかもしれないが、こうした建造物の構造のみを重視する方向、装飾とは無縁に機能性を追求する方向は、近代建築空間の全般にわたって現れてくる特徴とみなしてけっして不当ではない。
芸術における「近代」を論じた有名な研究書として、美術史家ハンス・ゼーデルマイヤーの『近代芸術の革命』をあげておこう。この著書は簡潔に、近代美術の四つの特性を指摘する。第一に純粋なものへの関心、第二に幾何学、または技術に向かう姿勢、第三に自由な意識をあそぶシュルレアリスムの姿勢、第四に人間の意識の内なる根源を求めてやまない表現主義的傾向。ゼーデルマイヤーは近代芸術の近代たる所以としてこの四つを指摘した。
いまはこの第一の特性、「純粋」のみに注目しておきたい。絵画をあげれば、純粋性とは二次元平面に線・明暗・色彩のみによってイメージを創出することである。物語や自然主義にイメージの成立根拠を求めない。その意味でセザンヌの風景画(一九〇五頃)をみておきたい(図3【1―5】)。この作品は、風景画ではあるけれども、画面の上半分を隠してしまえば、抽象画といってもかまわない。実際、色彩の小さなタッチのリズムや色面の組み立て以外に画面に何もあるわけではない。こういう特徴が絵画における純粋性をよく示していよう。ここから抽象絵画の登場(一九一三年)にはほんの一歩でしかない。彫刻では、たとえばブランクーシの〈空間の鳥〉という作品をあげておく(図4【1―6】)。ここでも、日常われわれの眼にする鳥、翼を持った鳥のフォルムの再現ではなく、石や木、金属でつくるマッス(塊量)そのものに鳥の運動そのものを託す姿勢がよくでている。建築ではル・コルビュジエの〈ヴィラ・サヴォワ〉(一九二九―三一)をみればよい(図5【1―7】)。ここでも、装飾を否定した非常に幾何学的な、やや心細いような柱と壁面が別荘建築を構成している。幾何学的ながら繊細きわまりない。一切余計なものは持たない純粋性が見事に造形されている。以上、風景画、彫刻、建築について純粋性を指摘してきた。近代美術の特性として、まず「純粋性」を念頭においていただきたい。これは、現代にいたるまで継承されてゆく特性である。
1-5 セザンヌ〈ローヴからみたサント=ヴィクトワール山〉1905年頃 油彩 カンザス・シティ ネルソン・アトキンズ美術館蔵
1-6 ブランクーシ〈空間の鳥〉1924年 金属 フィラデルフィア美術館蔵
1-7 ル・コルビュジエ〈ヴィラ・サヴォワ〉1929-31年 ポワシ
近代美術もうひとつの特牲―日常性
ところが第二次世界大戦後の世界に、こうした近代性の特徴たる純粋性に対抗する新しい関心が浮上する。それが、「ポップ・アート」である。第二次世界大戦で被害を蒙らなかったアメリカが芸術世界のリーダーになるという事情も作用している。ポップは、ポピュラー、大衆性を意味する。ここではむしろ、純粋性抽象性を志向するがゆえに理解に難しい抽象的世界よりも、ひろくわれわれが日常で接するわかりやすいイメージを主題とする関心が重視される。消費社会の申し子のような「広告」がイメージの核心をしめることになる。マリリン・モンローやプレスリー、そしてコカコーラ。ある意味ではわかりやすさ、イメージとして共有できる世界を重視する方向といってよい。
第二次世界大戦後には、近代美術の純粋性を追求する方向と、現代美術の特性というべき大衆文化の持つ広がりへの志向とが明確に現れてくる。第二次世界大戦後の美術の状況はとりあえずそう考えてよい。
純粋性の追求という意味では、アメリカの戦後美術を先導したジャクソン・ポロックの活動が典型的だ。ポロックはカンヴァスをアトリエの床の上におき、その上を絵具を滴らせながら身体自体を動かして描いてゆく方法をとった【1―8】。アクション・ペインティングとも呼ばれるこの方法は、文字通り何も具体的ものは表現しない。身体運動そのものが直接に線や色をつくってゆく絵画である。純粋性の追求は、この素晴らしい作家ポロックに結実をみたといって過言ではない。
1-8 制作中のポロック 1950年頃
他方、大衆文化の広がりという点で、英国の作家リチャード・ハミルトンのコラージュ作品をみておきたい(図6【1―9】)。奇妙なタイトルだが、〈いったい何が今日の家庭をこれほど変え、また魅力的なものにしているのか〉(一九五六)である。コラージュ(貼り合わせ)の形式で、よくわれわれが手にするような広告媒体、ポスターやちらしなどの印刷物の一部を切り抜き、貼り合わせて作品としている。この作品は、もし室内の床の上にあるテープレコーダーをパソコンにおきかえてよければ、今日のわれわれの日常そのものであろう。中央には肉体美を誇っている男性と日焼けサロンにいるような女性の姿がおかれているけれども、現代で健康がいかに過剰にイメージされているかを思うと、この作品の鋭さは誰しも認めざるをえないところだろう。画面中のインスタント缶詰食品、情報メディア、テクノロジー、幼児性などなど、消費社会の欲望にみちたポピュラー・イメージは列挙するまでもない。こうしたポップなイメージの増殖的エネルギーを先取りするハミルトンの作品は、やがてアンディ・ウォーホルはじめ多くの作家たちが歩む道すじを開拓したといえよう。
1-9 ハミルトン〈いったい何が今日の家庭をこれほど変え、また魅力的なものにしているのか〉1956年 コラージュ 個人蔵
こうした大衆文化の持つ広がりへの関心は同時に、ただたんにアメリカ的な大衆文化や消費社会的イメージだけにとどまらず、世界の多様な文化、あるいは民族的なひろがりへの関心と連動してもいた。ポップ・アートは一九五〇年代半ば以後に登場するから、むしろこうした世界文化的な関心のほうが先導していたといってもよい。なぜなら、美術アカデミーを舞台とする伝統的な芸術観やヨーロッパ中心的な世界観に疑問符をつきつける芸術家たちはすでに二〇世紀初頭から少なくなかったからである。そして、こうしたアーティストたちの関心は第二次世界大戦を機に、戦後の豊かなアメリカで大きく躍動することになる。
イサム・ノグチは、そうした状況を背景に登場したアメリカの俊英アーティストである。谷口吉郎もヨーロッパ留学を経験し、日本における近代建築の独自なありようを確立しようとしていた。二人の意思はおよそ異ならない。日本文化の育んできたフォルム、日本人の日常の場に固有な造形を追究しつつ、しかもそれに拘束されず、それをのりこえ、世界につうじる普遍的で純粋な表現を実現すること―これが、二人を結びつけた近代的な芸術理念であった。その実現が「新萬來舎」(一九五一)という傑作にほかならない。
〔まえだ ふじお 慶應義塾大学文学部教授・慶應義塾大学アート・センター所長。西洋美術史・芸術学。一九七四年慶應義塾大学大学院文学研究科美学美術史学博士課程修了。主要業績―『伝統と象徴』(編著)沖積舎、二〇〇三年。ゲーテ『色彩論』(共訳)工作舎、一九九九年。『朝日美術館 パウル・クレー』朝日新聞社、一九九五年。〕
※〈ラジオたんぱ〉慶應義塾の時間(現・ラジオNIKKEI)で平成十六年一月に放送されたものを、今号より隔月で連載する予定です。掲載にあたっては、加筆修正をほどこしています。