土方巽アーカイヴ

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土方巽について

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舞踏について

舞踏の流れを歴史的に概観しながら、舞踏について基本的な解説を加えてみましょう。

そもそも舞踏とは何なのでしょうか。舞踏を定義づけることがむずかしく、舞踏を体験していない人に説明するのに苦労するものです。

そこで、多くの人は、舞踏を創造した土方巽の舞台や言葉をもって舞踏に概念を与え、土方巽の舞台写真や舞台映像でもって舞踏をイメージし、理解しようとしています。土方巽の舞踏という回路を経て、舞踏を確かめることができるというわけです。

舞踏は土方一代のもので、土方の踊りの中にしか舞踏は存在しないという考えもあります。そうなると、今日の多様な舞踏の存在を認めないことになります。はたして、土方の舞踏は、このように多様な舞踏が存在することを許したのでしょうか。あるいは、ある舞踏は舞踏として許され、ある舞踏は舞踏として許されないものになるのでしょうか。

もちろん、土方巽アーカイヴが判断できる問題ではありません。しかし、舞踏について考える上で、まず土方巽の舞踏が問われるとすれば、土方巽の舞踏とは何かをスタンダードとして考察しておかなくてはなりません。土方巽の舞踏が、舞踏の先例でありモデルであり、アーキタイプでありマトリクスであるとするならば、その舞踏の様態を厳密に捉えておかなければなりません。

これまで数多くの人たちが、土方巽の舞踏について語り、そして書いてきています。それぞれの評者の感性や知識、経験、関心、立場に拠って、それぞれの時代状況を負って発言されていて、実に多様、多層な土方巽像と舞踏観が示されています。そのすべてを渉猟すれば、土方巽の舞踏が理解できるのかもしれません。しかし、なお漏れるものがあるように思えてなりません。

本アーカイヴでは、土方巽の舞踏をできうるかぎり客観的に見つつ、舞踏とは何かの論議のための材料を提供すること、あるいはそれ以前に、舞踏を語る上で拠って立つ場を確かにして、共有できるものにしておきたいと考えています。

舞踏の始まりは、1959(昭和34)年の土方巽の作品「禁色」だといわれています。当時はまだ「舞踏」という言葉はありませんでしたが、この作品とその発表が舞踏の発火点となったといっていいでしょう。

土方巽が「舞踏」という言葉を使ったのがいつかは正確にはわかりませんが、1966年7月に行った公演「性愛恩懲學指南図絵——トマト」に際して「暗黒舞踏派解散公演」をうたっています。前年の「バラ色ダンス」の公演では「暗黒舞踊派公演」といっているように、少なくとも1965年までは、公には暗黒舞踊と称していたのです。

「舞踏」という言葉が、いつ、どこから出てきたのかはともかく、「暗黒舞踊」と「暗黒舞踏」は実質的には連続性があるとみて差し支えありません。

ただし土方は、1968(昭和43)年に行った「土方巽と日本人——肉体の叛乱」という公演に際して、「暗黒舞踏派結成十一周年記念」とうたっています。それを承ければ、1957年に暗黒舞踏が開始されたように受け取れます。はたして、1957年に何か暗黒舞踏の萌芽となるような活動なり出会いがあったのでしょうか。しいていえば、この年、土方は「土方ジュネ」を名乗っています。ジャン・ジュネ(の作品)との出会いが「暗黒舞踏派結成」を意味するのかもしれませんが、確かなことはいえません。

ここでは、1959年の「禁色」をもって舞踏の濫觴としましょう。

故郷秋田でノイエタンツをもってダンスを始め、東京でモダンダンスからジャズダンス、スパニッシュダンス、クラッシックバレエなど、さまざまなダンスにふれ習得して、そしてそれらを脱ぎ捨てて宣言したのが暗黒舞踊でした。

1960年7月に行った土方巽の最初のリサイタル「土方巽DANSEEXPERIENCE」のパンフレットに寄せた土方自身の文章には「暗黒舞踊」の言葉が用いられています。そして、同年10月の「第2回六人のアヴァンギャルド」では、公演パンフレットに「暗黒舞踊」と題した文章を書いています。また、その文中で「暗黒舞踊派」を名乗っています。

こうして、「暗黒舞踊」をもって「舞踏」が始まりました。上記の二つの文章は、まさに土方巽の「暗黒」宣言であるといえますが、そこに土方巽の「暗黒」に込めた意味を読み取ることができます(土方巽の著書『美貌の青空』および『土方巽全集』に収載)。

土方はこう言っています。

「バラ色ダンスも暗黒舞踊もなべて悪の体験の名のもとに血をふき上げねばならぬ。神秘な危機感を伝統した肉体はそのために用意されている」と。

また、こうも言っています。

「知性はすでに縊死している。(中略)一切の芸術教養を抹殺しなければならない」と。

土方が後々まで表明し続けていた「無知や悲惨さを私の作舞から除外することは出来ない」という土方舞踏のテーゼも、その初出をここで見ることができます。

「中の素材」「素材」というのが最初の小文のタイトルです。「中の素材」とは土方自身の精神(の閲歴)に相当するのでしょうか。「素材」は文字どおり舞台に乗せるダンサー(の身体)のことを指しているのでしょう。そして、土方は素材としてダンスのプロではない高校生を見出し、彼らのダンスにではなく、彼らの「昼の労働のかなた」に多彩な舞踊を発見したといっています。

土方のこういった言葉や見方に、舞踏の原点を見ることができるでしょう。

こうして始まった舞踏ですが、それではついで、土方巽の暗黒舞踊はどのように展開されたのでしょう。

「稽古場で舞踊を体験してこなかった」と土方はいっています。もちろん言葉通りに受け止めることはありませんが、稽古場での正規のレッスン以外の活動が、自らの「舞踏」の形成に役立ったと考えていたのです。土方巽の言葉に従えば、社会的に蔑視されていた上野の男娼たちとの交友を通して舞踊の核心を捉え、プロのダンサーでもない高校生たちを素材とすることで舞踊の本質を掴むことに、舞踊創造の基盤をおいていたのです。

そうであれば、土方巽が創造しようとした舞踏は、普通に考えれば、技術を重視する舞踊とはいえないかもしれません。それは、「反舞踊」と措定できるでしょう。

舞踏最初期の土方巽は文学に傾倒していました。ジャン・ジュネ、ロートレアモン、サドなど反時代的なヨーロッパの文学に触発され、ダンスの創造をうながされたのです。