慶應義塾大学アート・センター Keio University Art Center

【追悼】ヨネヤマ・ママコさんを悼む

ヨネヤマ・ママコ氏のご逝去にあたり、土方アーカイヴとして、あらためてこれまでのご協力を深謝するとともに森下隆が謹んで哀悼の意を表します

ヨネヤマ・ママコさんが9月20日にお亡くなりになりました。享年88歳でした。謹んでお悔やみを申し上げます。

ヨネヤマ・ママコさんと土方巽は、1950年代の末に阿佐ヶ谷にあったダンススタジオで切磋琢磨した間柄です。二人の短くも深い交流は、ほぼ1年間でした。土方巽の「舞踏」にあっても重要な年月でしたが、なお「舞踏」にとって、この1年はミッシングリンクでもあったことは確かです。
土方巽アーカイヴでもアーカイヴが設置されてまもなく、1958年を検証するために、ヨネヤマ・ママコさんにもお話をうかがっていて、貴重な証言を得ています。また、貴重な当時の舞台写真をいただくことになりました。
それでもなお、1958年は「舞踏」にとってミッシングリンクであり、私たちは今もなおその解明を迫られています。
このたびは、ヨネヤマ・ママコさんの悔やまれるご逝去に際して、あらためてヨネヤマ・ママコさんと土方巽との出会いについて振り返ってみることにします。
失意の土方巽が向かったのが、阿佐ヶ谷の今井重幸さんのスタジオでした。時期は正確には分かりませんが、1958年の早い頃としておきましょう。
このスタジオは、新進音楽家であった今井さんのスタジオだったのですが、ママコさんの専用のスタジオのようでもありました。若いダンサーであったママコさんの才能を発見した今井さんは、ママコさんに大きな期待をかけていたことがよく分かります。
一方、住まいを持つこともなく東京を浮浪していた土方巽は、今井さんのスタジオに住み込む態でありました。つまり居候です。そうなると、土方とママコさんは日々顔を合わせることになり、しかも土方は年下のママコさんに挑発的だったので、ママコさんとしては大いに困ることになったのです。とはいえ、ママコさんは、賢明にも土方の挑発を避けつつダンスに勤しんでいたのです。
また、今井さんもそのような土方には困惑したでしょうが、土方の状況を把捉していたのでしょう、土方がスタジオに居候することを許容することになったのです。しかも、今井さんは土方のダンサーとしての才能を承知して、土方よりも若年ではありながら、メンターとしての役割も担ったのです。
なお、土方巽アーカイヴではママコさんとともに、今井さんにもお話をうかがっています。お二人の率直な証言は、私たちをようやく1958年の土方巽に導いてくれました。また、その折は、ママコさんと今井さんとの久闊を叙する機会でもあったのです。
1958年12月には《劇団人間座・現代舞台芸術協会提携公演》(俳優座)が行われました。現代舞台芸術協会を主宰していたのが今井さんでしたが、今井さんはプロデューサーとして、この提携公演に3本の作品を提供しました。
まず、〈雪の夜に猫を捨てる〉、ついで〈埴輪の舞〉、そして〈ハンチキキ〉です。ダンスマイム〈雪の夜に猫を捨てる〉は作曲・構成が今井さんで、ママコさんは振付とソロでのダンスでした。〈埴輪の舞〉は作曲・振付が今井さんで、土方が振付助手を勤めました。
そして、大作のバレエ・パントマイムの〈ハンチキキ〉では、今井さんが構成・演出、ママコさんが振付、そして主演ダンサーでした。脇を固めるのが、関矢幸雄、西田堯、大野一雄、若松美黄、そして土方巽という豪華なメンバーでした。作曲・台本は原田甫さんでした。
ママコさんは公演のプログラムに、「『ハンチキキ』の主演と振付を担当して」と題して、文章を寄せています。
曰く「幕が上がるとまず雀がひたすら酒をつくっている。この設定は私を大変喜ばせた。私は日頃の生活にくたびれかかった自分に大いに不満であったのでもう人間であることなどやめてしまい原生林の中から生まれた天性の雀になりたいと願った。踊るために生まれついたように自分を信じこませ(後略)」と。
さらにママコさんは、この機会を十分に生かしきれなかったとも省みつつ、自分の踊りを至上のものに高めるのはいつになるかと述べています。
いずれにせよ、若いママコさんを振付家として、そしてダンサーとして売り出し、新たなスターにというのが、当時の今井さんの意思であり、この公演もその戦略の一環であったことは一目瞭然です。
土方もまた、この舞台で土方巽のダンサーネームで再出発したことは確かです。とはいえ、今井さんとママコさんの活動に協力することはあれ、自分が目指している新しいダンスとしての「舞踏」を実現することは、今井さんの構想のうちでは、また居候のスタジオではあり得ないことも実感したことでしょう。
プログラムに掲載されている広報・広告には、スタジオ内にヨネヤマ・ママコバレエ研究所があり、「来春より発足する定期的な公演」のために「バレエ研究グループ員“募集”」とあります。
土方は阿佐ヶ谷では、その前に在籍していた東中野の安藤三子舞踊研究所とは全く違った環境での活動で得るものはあったとはいえ、バレエやパントマイムは土方が発想した「舞踏」とは背馳するダンスであったことも確かです。
それでもと言うか、とはいえ、舞踊作品〈ハンチキキ〉は、その後の土方巽の踊りや作品作りにどういう意味があったのかは問われるべきでしょう。そもそも、〈ハンチキキ〉はその後再演されることもありません。上記のダンサー以外にも、多くの優れたダンサーが舞台に上がっています。原田甫さんの音楽にも多くの演奏者と歌手が参加しています。
〈ハンチキキ〉がアイヌの神謡を題材にした壮大な叙事詩であることは分かりますが、ママコさんを主演とするダンスを見ることは叶いませんし、原田さんの音楽も聴くこともできません。
ところが、原田さんの師匠である伊福部昭についての著書がある木部与巴仁さんから、原田さんの〈ハンチキキ〉の手稿譜が東京音楽大学の図書館に保存されていると教えられて、一気に食指が動いたのです。それも今井重幸さんの縁です。
私はヨネヤマ・ママコさんにあらためて手紙を書いて、ダンスの再現はおぼつかなくとも、まずは〈ハンチキキ〉の音楽の一部たりとも復元してみたいという思いを伝えたのです。
かくして、3年前になりますが、〈ハンチキキ〉の音楽の再演を目指したのです。このささやかなプランは大方の協力をいただき実現することができて、ようやく私たちも音楽を通して、〈ハンチキキ〉の世界に触れることができたということです。
さらにママコさんのご教示、ご指導を得て、〈ハンチキキ〉のダンスの復元も夢想しないでもなかったのですが、力及ばず、その機会は永遠に失われました。
さて、土方巽です。土方は1958年12月の公演後に阿佐ヶ谷のスタジオを去ります。翌1959年、おそらくはこの年の早い時期に、土方が向かったのが目黒の津田信敏近代舞踊研究所でした。ここで、今日の「舞踏」につながる運命の邂逅があったのです。(森下隆 記)

 


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