慶應義塾大学アート・センター Keio University Art Center

関連年表

1858(安政5)
10月 福澤諭吉、中津藩の命により江戸築地鉄砲洲の中津藩奥平家中屋敷に蘭学塾を開く(慶應義塾の起源)。
1868(慶応4)
4月 福澤諭吉の塾、鉄砲洲から芝新銭座に移り、年号にちなみ「慶應義塾」と名付ける。
1871(明治4)
3月16日 慶應義塾、三田山上(旧島原藩中屋敷)に移転する。
1875(明治8)
5月1日 福澤諭吉、慶應義塾三田山上に日本最初の演説・討論のための施設《演説館》を開設。
1876(明治9)
11月 福澤諭吉、演説館の南側に教職員、塾生、卒業生のための集会所として《萬來舎》を開設。萬來舎は20畳位の広間と8畳くらいの小部屋からなり、廊下で演説館の控室に連絡していたという。★1
12月 『家庭叢談』第27号に、萬來舎開設の告知記事およびその趣旨を説明した「萬來舎之記」が掲載される。
1880(明治13)
1月25日 福澤諭吉の主唱により、日本最古の社交クラブ「交詢社」が結成され、発会式が行われる。★2
1887(明治20)
  萬來舎が改築のため解体される。以後「萬來舎」の名称は学内に設けられた教職員クラブに引き継がれる(-1945)。
1904(明治37)
6月24日 谷口吉郎、石川県金沢市に生まれる。
11月17日 イサム・ノグチ、ロサンゼルスに生まれる。父は野口米次郎(ヨネ・ノグチ)、母はレオニー・ギルモア。
1907(明治40)
3月 イサム・ノグチ、母と共に来日。このとき父に「イサム」と名付けられる。都内を転々と移り住む。★3
1911(明治44)
  イサム・ノグチ、母と茅ヶ崎に転居。翌年妹アイレス誕生。
1914(大正3)
  野口米次郎、イギリス再訪。
1917(大正6)
1月 イサム・ノグチ、母、妹と横浜に転居。
1918(大正7)
6月 イサム・ノグチ、中学校進学を機に単身アメリカへ帰国。
1919(大正8)
  野口米次郎、アメリカ再訪。
1923(大正12)
  イサム・ノグチ、ニューヨークのコロンビア大学医学部に進学。母も妹と共にアメリカに帰国する。
9月1日 関東大震災。
1924(大正13)
  演説館が三田山上西南端の稲荷山(現在の場所)に移築される。
  イサム・ノグチ、レオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校に通い彫刻を本格的に学ぶ。
1925(大正14)
  谷口吉郎、第四高等学校卒業。東京帝国大学工学部建築学科に入学。
1926年(大正15・昭和元)
11月 イサム・ノグチ、ニューヨークのブルマー画廊にて開催されたブランクーシの個展を訪れ、深く感銘を受ける。
1927(昭和2)
3月 イサム・ノグチ、グッゲンハイム奨学金を獲得しパリに留学。6ヶ月間、午前中はコンスタンティン・ブランクーシのアトリエでアシスタントをつとめ、午後はアカデミー・グランド・ショーミエールとアカデミー・コラロッシで素描を学ぶ。アシスタントを辞めた後、モンパルナスの自分のアトリエ(ベローニ通り7番地、現在のアルソンヴァル通り)で石と木を使った作品の制作を始める。
1928(昭和3)
  イサム・ノグチ、パリで抽象彫刻と抽象的なグアッシュ画を制作。ジャンティイのアトリエ(デドゥーヴル通り2番地)に移る。
  谷口吉郎、東京帝国大学工学部建築学科卒業。伊藤忠太教授の指導を受け卒業設計として「製鉄所」の計画案を提出。東京帝国大学大学院に進学し、佐野利器教授の指導により「工場建設」を研究。
1929(昭和4)
2月 イサム・ノグチ、グッゲンハイム奨学金の更新ならずニューヨークへ戻る。カーネギー・ホールの最上階にアトリエを構える。
4月 イサム・ノグチ、ユージン・シェーン画廊(ニューヨーク)で初の個展開催。この頃、資金調達ため、バックミンスター・フラー、マーサ・グラハム、ジョージ・ガーシュインらの所蔵彫刻を制作する。
1930(昭和5)
4月 イサム・ノグチ、パリに戻る。
7月 イサム・ノグチ、シベリア鉄道でベルリン・モスクワを経由し、北京へと向かう。6ヶ月間斉白石に師事し、毛筆画を学ぶ。★4
  谷口吉郎、東京工業大学講師となり「建築計画」を担当し、環境工学を研究。東工大キャンパス整備計画に参加。
1931(昭和6)
1月25日 イサム・ノグチ来日。船で門司に到着し、鉄道で東京に移動。父・野口米次郎と再会するが関係は修復されず。父から高村光雲、光太郎親子を紹介される。
4月 イサム・ノグチ、京都に4ヶ月間滞在し、陶芸家・宇野仁松の窯で陶芸を学ぶ。埴輪と禅の文化に感銘を受ける。
9月9日-10月4日 二科展(東京府美術館)にイサム・ノグチの《玉錦》と《支那娘》が出品され入選。
9月10日 イサム・ノグチ、横浜港から離日。ニューヨークに戻る。
  谷口吉郎、東京工業大学助教授となる。松井絹子と結婚。
1932(昭和7)
  谷口吉郎、処女作《東京工業大学水力実験室》竣工。この頃、慶應義塾財務理事・槇智雄から幼稚舎の設計を依頼される。
1933(昭和8)
  イサム・ノグチ、大不況により生活に困窮し、生活費を稼ぐためにロンドンへ渡る。ニューヨークへ戻り、《鋤のモニュメント》、《ベンジャミン・フランクリンのモニュメント》、《プレイマウンテン》など初めて大規模なランドスケープ・デザインを設計するが、いずれも実現せず。
12月31日 イサム・ノグチの母レオニー、ニューヨークにて逝去。
1935(昭和10)
  イサム・ノグチ、マーサ・グラハム《フロンティア》のために初の舞台装置デザインを手がける。メキシコシティーで壁画レリーフ《メキシコの歴史》を制作(-1936)。フリーダ・カーロと出会う。
1937(昭和12)
  谷口吉郎《慶應義塾幼稚舎校舎》*(渋谷区恵比寿)竣工。
  イサム・ノグチ、工業品《ラジオナース》(ゼニス・ラジオ会社)デザイン。
1938(昭和13)
  谷口吉郎《慶應義塾大学予科日吉寄宿舎》*(横浜市箕輪町)竣工。
  谷口吉郎、日本大使館建設工事の技術交渉のため外務省嘱託としてドイツに出張(-1939)。ベルリンで見た19世紀の建築家カール・フリードリヒ・シンケルの作品に大きな影響を受ける。
1939(昭和14)
  イサム・ノグチ、A.コンガー・グッドイヤー(ニューヨーク近代美術館館長)のために初のテーブル・デザインを手がける。
1940(昭和15)
  イサム・ノグチ、ハワイ、アラ・モアナ公園の遊具デザインを手がけるも実現せず。
1941(昭和16)
  イサム・ノグチ、ニューヨークのセントラルパークに《地形だけでつくるプレイグラウンド》を計画するも、12月8日の真珠湾攻撃による日米開戦のため、実現に至らず。
1942(昭和17)
5月 イサム・ノグチ、アリゾナ州ポストンの日系二世強制移住キャンプに志願して入所(-11月)。強制収容所のための公園とレクリエーション施設をデザインするも、いずれも実現せず。照明彫刻《ルナー彫刻》の制作を開始する(-1948)。家具やインテリア・デザインをハーマン・ミラー社とクノール社が製品化。
  谷口吉郎、「建築物と風圧に関する研究」により日本建築学会賞を受賞。
1943(昭和18)
  谷口吉郎、工学博士を受ける。東京工業大学教授となる。
  イサム・ノグチ、三脚の筒型ランプをデザイン(1944ノル社が製品化)。
1944(昭和19)
11月 谷口吉郎、雑誌『文藝』に「雪あかり日記」の連載開始。
1945(昭和20)
5月24日-26日 慶應義塾三田キャンパスが空襲によって被爆し、多大な被害。演説館の北側にあった萬來舎は、4月15日から5月中旬にかけて空襲による被害を避けるため事前に解体し保管。しかしそれも5月25日の空襲により焼失。
8月15日 第二次世界大戦終結。
1947(昭和22)
  谷口吉郎《藤村記念堂》(長野県木曽郡山口村)竣工。野田宇太郎の仲介により最初の記念碑《徳田秋声文学碑》(金沢市卯辰山公園)を設計。除幕式で川端康成に会う。『雪あかり日記』(東京出版)刊行。
  イサム・ノグチ、アメリカン・ストーヴ社ビル(セントルイス)とタイム・ライフ社ビルの天井のための《ルナー彫刻》を制作。ハーマン・ミラー社がノグチ・デザインの家具の生産開始。
7月13日 野口米次郎、疎開先の茨城県結城で逝去。
1948(昭和23)
5月15日 谷口吉郎《慶應義塾中等部三田校舎(E館)》(港区三田)竣工。
8月31日 谷口吉郎《慶應義塾幼稚舎合併教室(自尊館)》(渋谷区恵比寿)竣工。
  イサム・ノグチ、客船アルジェンティナ号の階段吹抜け部分の《ルナー彫刻》を制作。
1949(昭和24)
1月10日 谷口吉郎《慶應義塾大学第二校舎(五号館)》(港区三田)竣工。
2月 谷口吉郎、新制作協会に新設された建築部に丹下健三、前川國男らと共に参加。
5月5日 谷口吉郎《慶應義塾大学第三校舎(四号館)》(港区三田)竣工。前庭に菊地一雄のブロンズ彫刻《青年像》(昭和24年毎日美術賞受賞作)を設置する。
5月12日 イサム・ノグチ、ボーリンゲン基金の奨学金を獲得し世界一周の旅行に出発。フランスに4週間滞在し、パリでブランクーシ、ル・コルビュジェ、レジェ、ブルトン、ジャコメッティに会う。6月5日-9日チューリッヒ滞在。6月10日-8月17日イタリア、南フランス、スペインを旅行。8月18日-9月2日ギリシャ滞在。9月3日-14日エジプトで12日間過ごす。9月15日-1950年1月11日インド、スリランカ(セイロン)の各地を旅行。1月12日-5月2日バリと東南アジアで3週間半過ごす。《スカルノ大統領頭像》を制作。★5
11月 谷口吉郎《慶應義塾中等部三田校舎(F館)》(港区三田)竣工。
11月26日 谷口吉郎《慶應義塾大学学生ホール》(港区三田)竣工。中央の吹き抜け部分(食堂)の東西壁面に猪熊弦一郎の壁画《デモクラシー》を飾る。
12月10日 谷口吉郎《慶應義塾大学通信教育部事務室》(港区三田)竣工。
  谷口吉郎、《藤村記念堂》《四号館》《学生ホール》により第1回建築学会賞受賞。
1950(昭和25)
5月2日 イサム・ノグチ、日本に到着。
5月6日 イサム・ノグチ、慶應義塾大学を訪問する。谷口吉郎、猪熊弦一郎、菊地一雄、西脇順三郎、守屋謙二らが迎える。谷口はノグチに「新萬來舎」の構想を説明し協力を依頼する。
5月10日 イサム・ノグチ、有楽町毎日ホールで「芸術と集団社会」と題する講演(毎日新聞社主催)を行う。★6
6月1日 イサム・ノグチ、長谷川三郎と共に2週間にわたる京都、大阪、奈良、伊勢への旅行に出発。
6月19日 日本美術家連盟がイサム・ノグチの提案する《広島の鐘楼》の制作援助を確約。
6月20日 イサム・ノグチ、国立博物館で「モダンライフと室内の傾向」と題する講演を行う。
6月24日 イサム・ノグチ、東京大学丹下健三助教授の研究室で剣持勇と会う。
7月11日-16日 イサム・ノグチ、弟野口ミチオとともに瀬戸に滞在し、テラコッタ作品を制作。
7月28日 イサム・ノグチ、猪熊弦一郎夫妻と共に川崎市津田山の工芸指導所を訪問する。
8月1日-14日 イサム・ノグチ、田園調布の猪熊邸から工芸指導所に通い家具と彫刻のデザイン・制作を行う。
8月18日-30日 イサム・ノグチ、日本橋三越(東京)において「イサム・ノグチ作品展」(毎日新聞社主催、日本美術家連盟協賛)開催。会期は27日までの予定であったが、30日まで延期される。★7
9月5日 イサム・ノグチ、羽田空港から離日。ニューヨークへ戻る。
11月 猪熊弦一郎、学生ホールの壁画《デモクラシー》と名古屋丸栄ホテルの大ホール壁画《愛の誕生》により昭和25年度毎日美術賞受賞。
11月18日 谷口吉郎《慶應義塾大学病院は号病棟》(新宿区信濃町)竣工。
12月 イサム・ノグチの《無》石膏原型が『芸術新潮』の昭和25年秀作に選ばれる。
1951(昭和26)
3月28日 イサム・ノグチ、リーダーズ・ダイジェスト東京支社ビル(アントニン・レーモンド設計)の庭園プロジェクトのため来日。
4月1日 谷口吉郎《慶應義塾女子高等学校第一校舎(三号館)》(港区三田)竣工。
5月18日 リーダーズ・ダイジェスト東京支社ビル竣工。オープニング式典において勅使河原蒼風と会う。
6月 イサム・ノグチ、広島平和公園の2つの橋《つくる》、《ゆく》の設計提案を依頼され広島を訪問する。広島へ向かう途中、長良川の鵜飼を見学するため立寄った岐阜で提灯工場を見学し照明彫刻《あかり》の着想を得る。
7月5日 イサム・ノグチ離日しロサンゼルスへ向かう。
8月 谷口吉郎《慶應義塾大学第二研究室》(港区三田)竣工。1階談話室は「新萬來舎」と名付けられるが、後に塾内では「ノグチ・ルーム」と呼ばれるようになる。
9月27日 谷口吉郎《慶應義塾普通部日吉校舎》*(横浜市日吉本町)竣工。
11月10日 イサム・ノグチの《無》、第二研究室西側庭園に設置完了。池田潔(慶應義塾大学教授)が「背の高いプリンの上にのっかった超特大のドーナッツ」と評するなど作品の哲学的名称が物議をかもす。★8
11月16日 イサム・ノグチ来日。
11月17日 神奈川県立近代美術館(鎌倉)開館。
12月 猪熊弦一郎、工芸指導所において国鉄上野駅中央ホールのための大壁画《自由》を制作。27日除幕式。
1952(昭和27)
1月 谷口吉郎《慶應義塾大学病院ほ号病棟》*(新宿区信濃町)竣工。
4月 谷口吉郎《慶應義塾女子高等学校第二校舎(四号館)》(港区三田)竣工。
4月8日 イサム・ノグチの《広島原爆慰霊碑》案が却下される。
5月 イサム・ノグチ、山口淑子と結婚。北鎌倉の北大路魯山人邸に新居を構え、陶作品の制作に没頭する。
7月 イサム・ノグチの広島の2つの橋が竣工。原爆記念日を前に披露される。
9月 谷口吉郎《慶應義塾大学第三研究室》(港区三田)、《慶應義塾大学体育会本部》(港区三田)竣工。
9月23日-10月26日 神奈川県立近代美術館(鎌倉)において「イサム・ノグチ展」(毎日新聞社後援)開催。陶作品と《あかり》が出品される。
10月 高島屋(東京、大阪)においてイサム・ノグチの《あかり》が展示販売される。
11月 イサム・ノグチがインテリア・デザインを担当した中央公論社画廊がオープン。
12月 国立近代美術館(東京京橋)開館。
1953(昭和28)
6月6日 谷口吉郎《慶應義塾大学病院に号病棟》*(新宿区信濃町)竣工。
9月 谷口吉郎《慶應義塾大学日吉第三校舎》(横浜市日吉)竣工。
  ニューヨークのモダン・デザイン専門店ボニエルズで、イサム・ノグチ《あかり》の販売開始。
1954(昭和29)
3月 谷口吉郎《慶應義塾大学病院特別病棟》*(新宿区信濃町)竣工。
8月2日-7日 中央公論画廊(東京)において「あかり」展開催。
11月23日-翌年1月8日 イサム・ノグチ、ステイブル画廊(ニューヨーク)において個展開催。日本で制作した陶作品が出品される。
1955(昭和30)
4月 イサム・ノグチ、ボニエルズ(ニューヨーク)で「あかり」展開催。
1956(昭和31)
2月 イサム・ノグチ、山口淑子と離婚。★9
3月10日 谷口吉郎《慶應義塾大学医学部基礎医学第一校舎》(新宿区信濃町)竣工。
4月7日 谷口吉郎《慶應義塾中等部三田校舎》*(港区三田)竣工。
  イサム・ノグチ、パリの《ユネスコ本部庭園》設計(-1958)。
1957(昭和32)
11月20日 谷口吉郎《慶應義塾大学医学部基礎医学第三校舎(東校舎)》*(新宿区信濃町)竣工。
1958(昭和33)
4月23日 慶應義塾、創立百年開校記念日を迎え、谷口吉郎《慶應義塾発祥記念碑》(中央区明石町)の除幕式を挙行。
1960(昭和35)
  イサム・ノグチ、エルサレム、イスラエル美術館の《ビリー・ローズ彫刻庭園》を設計(-1965)。ゴードン・バンシャフトと共にイェール大学、バイネッケ稀覯本図書館の沈床園を設計(-1964)。円環彫刻シリーズの制作を開始する。
1961(昭和36)
  イサム・ノグチ、ルイス・カーンとニューヨークのリバーサイド・ドライブ・パークの遊園地を設計する(-1966、実現せず)。バンシャフトと共にチェイス・マンハッタン銀行の沈床園を設計する(-1964)。
1962(昭和37)
  谷口吉郎、日本芸術院会員となる。
1964(昭和39)
5月11日 谷口吉郎《慶應義塾幼稚舎講堂(自尊館)》*(渋谷区恵比寿)竣工。
  谷口吉郎、博物館明治村初代館長に就任(開館は1965)。
1965(昭和40)
  イサム・ノグチ、「こどもの国」(横浜)のための遊園地を大谷幸夫と共同設計(-1966)。ノグチの遊園地デザインが初めて実現される。
1966(昭和41)
  イサム・ノグチ、日米の芸術交流を援助する目的でニューヨークに「あかり財団」を設立。シアトル美術館の《黒い太陽》の制作を四国で開始する(-1969)。
  谷口吉郎、東京工業大学を定年退官し、名誉教授となる。
1967(昭和42)
6月27日 イサム・ノグチ、慶應義塾を訪問し、永沢邦男塾長、写真家三木淳らと歓談する。★10
  谷口吉郎、「谷口吉郎建築設計研究所」を設立。
1968(昭和43)
4月 イサム・ノグチ、ホイットニー美術館(ニューヨーク)において回顧展開催。自伝”A Sctrptor’s World”刊行(翌年、日本語版『ある彫刻家の世界』刊行)。
1969(昭和44)
  イサム・ノグチ、移転した東京国立近代美術館(東京北の丸公園、谷口吉郎設計)のために大型屋外彫刻《門》を制作。香川県牟礼にアトリエを設け、和泉正敏と共同制作を開始する。《黒い太陽》が完成しシアトル美術館に設置される。
  谷口吉郎、文化財保護審議会委員となる。
1970(昭和45)
  イサム・ノグチ、大阪万博のために9基の噴水作品を制作。
1973(昭和48)
5月14日-6月9日 南画廊(東京日本橋)において「イサム・ノグチ彫刻展」(朝日新聞社主催)開催。
  谷口吉郎、文化勲章受章。
1974(昭和49)
12月 谷口吉郎、自伝『建築に生きる』刊行。
1976(昭和51)
9月22日 谷口吉郎《慶應義塾幼稚舎百年記念棟》*(渋谷区恵比寿)竣工。
1978(昭和53)
  イサム・ノグチ、草月会館(東京赤坂、丹下健三設計)のために設計した《天国》が完成。
1979(昭和54)
2月2日 谷口吉郎、都内の病院にて逝去。
1980(昭和55)
  イサム・ノグチ、カリフォルニアのコスタ・メサに彫刻庭園《カリフォルニア・シナリオ》を設計(-1982)。ニューヨークにイサム・ノグチ財団設立。ナンシー・グローヴとダイアン・ボトニックによるカタログ・レゾネが刊行される。
1981(昭和56)
8月12日 第二研究室増築のため、イサム・ノグチ《若い人》と《学生》の設置場所が変更される。
1983(昭和58)
  ニューヨークに「イサム・ノグチ庭園美術館」完成。予約制で公開を始める。
1985(昭和60)
  ニューヨーク「イサム・ノグチ庭園美術館」がグランド・オープン。
1986(昭和61)
  イサム・ノグチ、「第42回ヴェネツィア・ヴィエンナーレ」米国代表に選ばれる。第2回京都賞受賞。
1987(昭和62)
  イサム・ノグチ、アメリカ合衆国より「国民芸術勲章」を授与される。
1988(昭和63)
  イサム・ノグチ、札幌に《モエレ沼公園》のマスター・プランを設計。新高松空港のため《タイム・アンド・スペース》を設計(完成1991)。
7月 イサム・ノグチ、勲三等瑞宝章を授与される。
12月30日 イサム・ノグチ、ニューヨークにて逝去。
1992(平成4)
3月14日 「イサム・ノグチ展」(東京国立近代美術館[3月14日-5月10日]、京都国立近代美術館[5月26日-7月5日])開催。
6月6日 札幌の大通公園にイサム・ノグチ《ブラック・スライド・マントラ》が設置される(翌年10月に現在の8-9丁目に移設)。
1996(平成8)
3月7日 「イサム・ノグチと北大路魯山人」展(セゾン美術館[3月7日-4月14日]、高知県立美術館[4月26日-6月2日]、神奈川県立近代美術館[6月29日-8月25日]、ふくやま美術館[9月13日-10月20日])開催。ノグチ・ルームのソファーが出品される。
11月12日-15日 慶應義塾大学アート・センター、武蔵野美術大学・水上嘉久氏に依頼し《無》の修復作業を実施。
1997(平成9)
9月27日-10月12日 建築会館ホール(東京港区芝)において「谷口吉郎」展(日本建築学会主催)開催。関連企画として慶應義塾大学アート・センターが9月27日・10月9日の両日、ノグチ・ルームの一般公開を実施。
1999(平成11)
5月 香川県牟礼のアトリエが、イサム・ノグチ庭園美術館としてオープン。
2000(平成12)
6月1日 建物名称検討委員会の提案が慶應義塾評議員会で認められ、第二研究室が「萬來舎」と改称される。
2001(平成13)
10月 慶應義塾、新しい大学院のコンセプトを検討するため「新大学院構想検討委員会」を設置。
2002(平成14)
1月 慶應義塾、「新大学院構想検討委員会」の答申をうけ法科専門大学院設立を決定。新大学院の環境を検討する「新大学院環境整備検討委員会」を発足させる。
3月 慶應義塾、第二研究室の場所に約5千坪の面積をもつ新校舎を2005年4月までに建設する計画立案を決定。施設計画の基本方針として説明責任をはたし透明性と公明性を確保するため、新校舎建設にあたって計画提案競技を実施することを決定し、3月22日に計画提案競技の説明会を実施。
4月 17名の審査員による新校舎計画提案競技の第1次審査を実施し、3社案を採用。
5月 新校舎計画提案競技の第2次審査を実施し、常任理事会において大成建設案を選定。新校舎基本計画策定作業が開始される。
5月10日 慶應義塾大学文学部美学美術史学専攻、要望書「萬来舎およびノグチ・ルームの保存に関する要望」を安西塾長宛に提出。
6月3日 慶應義塾大学アート・センター、鷲見洋一所長名で要望書「萬來舎移築に関するお願い」を担当理事宛に提出。
6月8日 安西祐一郎慶應義塾長が米国イサム・ノグチ財団(ニューヨーク)を訪問し、新校舎建設の計画内容について説明。
6月25日 新校舎建設に伴う全体説明会開催。吉村洪中等部教諭、要望書「ノグチ・ルームとその周辺に関して」を担当理事宛に提出。
6月 新校舎の基本計画策定作業を終え、基本設計作業が開始される。
7月24日 学内諸委員会に所属しない独立した作業部会として「ノグチ・ルーム保存ワーキング・グループ(WG)」(座長:前田富士男)が設置される。★11
8月8日 新校舎建設基本計画に関する全体説明会開催。
8月30日 ノグチ・ルーム保存WG第1回意見交換会開催。
9月21日 ノグチ・ルーム保存WG第2回意見交換会開催。
10月 塾員・塾教員ら32名の発起人からなる「新萬來舎/ノグチ・ルームの保存を要望する会」(代表世話人 河合正朝、杉山真紀子、千住博、田中亮三、矢内原勝、山岸健)が結成され、ノグチ・ルームの保存要望の署名運動を開始。
10月17日 ノグチ・ルーム保存WG第3回意見交換会開催。
10月21日 ノグチ・ルーム保存WG第4回意見交換会開催。
10月2日 吉田和夫慶應義塾常任理事、イサム・ノグチ日本財団(香川)を訪問。
11月5日-12月21日 草月美術館(東京赤坂)において「イサム・ノグチ展」開催。
11月11日 新萬來舎/ノグチ・ルームの保存を要望する会、要望書「旧第二研究室(新萬來舎/ノグチ・ルーム)保存に関する要望」を安西塾長宛に提出。
11月12日 ノグチ・ルーム保存WG第5回意見交換会開催。★12
11月14日 米国イサム・ノグチ財団のシャピロ理事長、メッサー理事、サダオ理事の3名が来塾。新校舎建設とノグチ・ルーム移築計画について説明と意見交換を行う。
12月16日 前田富士男ノグチ・ルーム保存WG座長、「ノグチ・ルーム保存WGによる活動報告ならびに答申」(12月12日作成)を担当理事宛に提出。
2003(平成15)
1月 新校舎の基本設計終了。
1月6日 (社)日本建築家協会関東甲信越支部長と保存問題委員長の連名で要望書「慶應義塾大学萬來舎(第二研究室)の保存についての要望書」を安西塾長宛に提出。
1月7日 「新萬來舎保存のための国際委員会 International Committee to Preserve Shinbanraisha」(代表 Shoji Sadao)、200名近い署名とともに新萬來舎/ノグチ・ルームの保存を要望する書面を安西塾長宛に提出する。
1月18日 慶應義塾、新萬來舎/ノグチ・ルームの保存を要望する会の要望書に対し、「慶應義塾大学旧第二研究室(新萬來舎/ノグチ・ルーム)の保存に関する慶應義塾の方針」を回答。
1月20日 慶應義塾評議員会で、はじめて第二研究室の解体とノグチ・ルーム部分の新校舎への移設が報告された。審議事項でなく報告事項のため、討議はなかった。
1月21日 新校舎基本設計全体説明会開催。
2月 新校舎の実施設計終了。詳細設計作業を開始。
2月20日 慶應義塾、新萬來舎保存のための国際委員会の要望に対し、慶應義塾の方針を回答。
3月7日 「新萬來舎・ノグチルームの保存を求める会」(代表 河合正朝、松村高夫)が発足し、「要望書」を安西塾長宛に提出。
3月8日・10日 慶應義塾、萬來舎/ノグチ・ルームの一般公開会開催。2日間で約2500人が見学に訪れる。慶應義塾ホームページに「萬來舎およびイサム・ノグチ作品保存の試み」(http://www.keio.ac.jp/news/030308.html)を発表。
3月11日 慶應義塾、新萬來舎・ノグチルームの保存を求める会に「要望書に対するご回答」を提出。
3月15日 新萬來舎・ノグチルームの保存を求める会、「再要望書」を安西塾長宛に提出。
3月21日 新萬來舎・ノグチルームの保存を求める会のメンバーを中心とした塾教員11名と米国イサム・ノグチ財団が連名で、著作物の同一性保持及び同一性享受権に基づく解体・移設差止めを求める仮処分を東京地裁に申請(平成15年(ヨ)第22031号 著作権仮処分命令申立事件)。
4月1日 吉田和夫慶應義塾常任理事、米国イサム・ノグチ財団を訪問し意見交換。
4月1日-4月6日 東京デザインセンター(東京五反田)において「イサム・ノグチ デザイン展」開催。ノグチ・ルームが写真で紹介される。
4月17日 慶應義塾、(財)文化財建造物保存技術協会に萬來舎の保存工事に関する指導・助言を依頼。
5月6日 「谷口吉郎先生の「萬来舎」の21世紀の意義を問う会」(代表 青木志郎)、安西塾長宛に萬來舎の現状保存に関する要望書を提出。
6月11日 東京地裁、4回の審尋を経て、「移築によって作品の同一性は失われる」と債権者側の主張に一定の理解は示したものの、債権者が「著作者人格権」を有するとは認められない、として解体・移設差止めを求める仮処分申請の却下を決定。
6月下旬 慶應義塾、萬來舎の解体工事を開始。
7月 慶應義塾、イサム・ノグチ日本財団の金子正光理事長に新校舎建設計画説明。
7月9日 米国イサム・ノグチ財団、ニューヨークで記者会見し、慶應義塾による萬來舎解体に遺憾の意を表明。
7月14日 慶應義塾、新校舎新築工事の地鎮祭を行う。
7月17日 美術品管理運用委員会に新校舎建設計画を説明。
9月 萬來舎の基本調査および解体工事終了。
10月17日 美術品管理運用委員会に萬來舎保存調査の中間報告を行う。
10月28日-12月21日 東京国立近代美術館において「あかり——イサム・ノグチが作った光の彫刻」展開催。ノグチ・ルームのテーブルとソファーが出品される。
10月-12月 第3木・金・土曜日に、熊倉敬聡慶應義塾大学理工学部助教授の主宰する「萬來喫茶イサム」がノグチ・ルームにて開催。アーティストの大野一雄、椿昇、船越桂、今村創平、長谷川孝治、小山田徹、オーストラリアの劇作家ジェーン・ハリソン、タイやフィリピンの俳優はじめ、多数の学生・留学生、教職員が参加。
12月13日・14日 アトリエスズキ(東京銀座)において「第2回アートを愛する心&未来に託す心の大切さ 写真展『萬来舎』」(萬来舎の保存を要望する会主催)開催。
2004(平成16)
4月26日 常任理事会および美術品管理運用委員会に萬來舎保存調査結果を報告。
5月2日 「谷口吉郎 イサム・ノグチ生誕100周年記念 萬来舎写真展『美の鼓動、永遠に』」(アルテピッツァ美唄[5月2日-5月31日]、金沢市立ふるさと偉人館[9月18日-10月24日]、京都工芸繊維大学美術工芸館[2005年2月5日-2月19日])開催。
5月18日 米国イサム・ノグチ財団のシャピロ理事長、メッサー理事、サダオ理事の3名が来塾。新校舎建設とノグチ・ルーム移築計画について説明と意見交換を行う。
6月8日 「イサム・ノグチ、ランドスケープへの旅:ボーリンゲン基金によるユーラシア遺跡の探訪」展(広島市現代美術館[6月8日-7月19日]、モエレ沼公園ガラスのピラミッド[7月25日-8月29日]、メゾンエルメス8Fフォーラム[9月7日-10月17日]、香川県文化会館[10月30日-11月28日])開催。
7月6日 第1回萬來舎移築検討会議開催。★13
7月26日 黒田昌裕慶應義塾常任理事、米国イサム・ノグチ財団を訪問し、ノグチ・ルーム移築計画について意見交換を行う。
8月17日 第2回萬來舎移築検討会議開催。
9月4日 「ジャパニーズ・モダン——剣持勇とその世界」展(秋田市立千秋美術館[9月4日-10月3日]、京都国立近代美術館[10月8日-11月3日]、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館[11月13日-2005年1月16日]、松戸市博物館[1月22日-2月20日])開催。ノグチ・ルームのコーヒー・テーブルとスツールが出品される。
9月17日 「イサム・ノグチあかり展」(岐阜県美術館[9月17日-10月30日]、飛騨・世界生活文化センター[11月6日-11月28日])開催。
10月12日 第3回萬來舎移築検討会議開催。移築後の萬來舎デザインを隈研吾教授に、ランドスケープ・デザインをミシェル・デヴィーニュ氏に依頼することを決定。
11月2日 第4回萬來舎移築検討会議開催。隈研吾教授による萬來舎設計変更案を承認。
12月8日 第5回萬來舎移築検討会議開催。ミシェル・デヴィーニュ氏によるランドスケープ・デザイン案を承認。
2005(平成17)
3月15日 新校舎建物引渡予定。
3月28日 新校舎竣工式開催予定。

全体・部分を問わず、2004年12月の時点で現存している谷口吉郎設計の慶應義塾建築物には、*をつけて明示した。

  1. 「万来社」、『慶應義塾百年史』上巻、慶應義塾、1958年、618-622頁。
  2. 『交詢社百年史』、交詢社、1983年、3頁。
  3. ノグチの来日および幼年時代については諸説あるが、本年表ではドウス昌代『宿命の越境者——イサム・ノグチ』(上)97頁以下の記述を参照した。
  4. 中国滞在については、自伝『ある彫刻家の世界』でノグチ自身は8ヶ月と記しているが、7月に北京に向かうという記述と、翌年1月に日本に到着する事実と矛盾しているため、ドウス昌代『イサム・ノグチ』(上)252頁を参照し、6ヶ月とした。
  5. ボーリンゲン基金による旅行の詳細については、『イサム・ノグチ、ランドスケープへの旅:ボーリンゲン基金によるユーラシア遺跡の探訪』展リーフレット、広島市現代美術館[ほか]、2004 の「年譜」を参照した。
  6. 多くの年表には5月9日とあるが、ノグチの講演は5月10日午後2時開演であった。『毎日新聞』1950年5月9日の告知記事、および1950年5月14日の開催報告記事参照。
  7. 『毎日新聞』昭和25年8月25日4面の会期延長の告知記事参照。
  8. 《無》の「哲学的名称」をめぐる物議については、『毎日新聞』1951年11月12日の「雑記帳」、『毎日新聞』1951年11月20日の「ヘリコプター 《無》の波紋」、『毎日新聞』1951年11月30日の谷口吉郎「《無》の魂」を参照。
  9. ノグチと山口淑子の離婚については諸説あるが、本年表では山口淑子『「李香蘭」を生きて—私の履歴書—』日本経済新聞社、2004年、160頁の記述を参照した。
  10. 「イサム・野口氏来塾 野口ルームで語る」(山上広場)、『三田評論』663号、1967年8月参照。
  11. ノグチ・ルーム保存WGの構成メンバーは以下の通り:前田富士男(慶應義塾大学文学部教授)、近藤幸夫(慶應義塾大学理工学部助教授)、柳井康弘(慶應義塾大学アート・センター・キュレーター)、矢ノ目優(慶應義塾管財部工務課)、山代昌彦(慶應義塾管財部工務課)
  12. ノグチ・ルーム保存WG意見交換会第1回-第5回の出席者は以下の通り(50音順):池田幸弘、大沢輝嘉、植野正清、河合正朝、紺野敏文、三枝守正、篠田義男、杉山真紀子、鷲見誠一、関龍夫、西川杏太郎、半澤重信、広井力、前田富士男、松井郁夫、柳井康弘、矢ノ目優、山岸健、由良滋、吉田和夫。
  13. 萬來舎移築検討会議の構成メンバーは以下の通り:吉田和夫(慶應義塾常任理事、座長)、仙田満(東京工業大学教授)、黒川弘毅(武蔵野美術大学教授)、隈研吾(慶應義塾大学理工学部教授)、三宅理一(慶應義塾大学政策・メディア研究科教授)、池田靖史(慶應義塾大学環境情報学部非常勤講師)、紺野美英(慶應義塾塾監局管財部長)、矢ノ目優(慶應義塾信濃町工務課)、中内康雄(文化財建造物保存技術協会)、市川孝徳(文化財建造物保存技術協会)。